元気通信#202 「筋肉質元年」は「社会貢献」の第一歩!

 「私のモットー」は、昨年まで「仕事も趣味も一生懸命!」だった。これは6年前の「コロナ禍」で会社の非常事態で仕事に大きく比重がかかったが、それでも趣味の「走る(マラソン)」と「歌う(コンサート」)」は残していた。・・・今年77歳の喜寿を目前に控え、先ず私が体調を崩しウォーキングさえ出来なくなり、ほぼ同時に、妻も軽い脳内出血で入院という前代未聞の事態に、これまでの「最高(齢)営業マン」の看板に、暗雲がかかった。

 これは何か「神の啓示」だと真剣に我を振り返った。・・・そこに、京セラ創業者・稲盛和夫氏の言葉が強く刺さって来た。・・・「仕事だけが人生じゃない。趣味や娯楽も必要だ」と言われる方がいます。しかしそれは本業に打ち込むことができない人が、その代替えとして、趣味などに自分の喜びを見出そうとしているだけなのです。本業に真剣に打ち込むことによって、喜びを見出してこそ、プロの経営者として仕事が全うできるのです。・・・「これだ!」私は直感した。

 私は本業に真剣に打ち込まないと真の経営者とは言えない。特に今、私が体調を崩し、妻にも寄り添いながらの今の仕事は(絶好調に比べ)何割か減るので、気持ちだけでも全力投球したい。早速話をいただいている「コンサート」の話や、「勉強会」や「懇親会」をお断りさせていただいた。

 前期は売上・利益ともに伸びたが目標には届かず、課題を今期に持ち越した。しかし得るものも多かった。一つは新人I君の成長と会社の伸びしろが拡がり、みんなの向上心・協調心の社風が醸成された。もう一つは(私の心に)、事業の目的意義を「雇用と事業の受け皿を目指す」と定め、そのために先ず「筋肉質」の会社を作り、売上シェアだけでなく、利益率や自己資本比率を高める決意が生まれたこと。・・・介護保険が年々厳しくなる2030年代には強靭な会社として勝ち残り、生き残れない中小競合の「雇用や事業の受け皿」となることは、立派な社会貢献だろう。

 会社創業して丸25年。第26期を「筋肉質元年」と命名した。いつもは慎重な(後継者の)店長が、今期のレンタル売上目標を100万アップの高い目標を掲げた。その裏には先述の手応えと読みと、店長自身の成長があるのだろう。私も店長の意志を最大限にくみ取り、社員たちの活動を裏で支えることに徹したい。・・・併せて、「喜寿」を迎えるに当たり、会社の伸びている、この良きタイミングを見極め、承継の流れを進めて行きたい。そして少しだけ夫婦で自分たちの時間を作り、少しだけ私たちの歴史を振り返って見たい。・・・2026年はそういう年なのかもしれない。


鹿児島市 吉野公園の桜

雄ちゃんの今昔物語 VOL,137

「社会人1年生」(2013年4月リメイク版)

 最初にこの原稿を書いたころは、新社屋建設の完成前の2013年だった。あれから7年後の2020年の「コロナ禍」という前代未聞の大津波に呑み込まれた時には最悪を覚悟した。
 「コロナ禍」で、私が経営者としてダメだったか痛感させられた。そこで覚悟を決めて一からやり直し6年、今の私がある。「因果応報」良きにつけ悪しきにつけ、それは自分の過去が招いた結果が出て来ただけ。そう思いながら、50年前の社会人1年生のころに戻って私を振り返ってみたい。

 私の節目・分岐点は、学生時代は環境の変化「2回の引っ越し」「小学校転校」「中学寄留入学」「高校」「予備校」「大学」によるもので、そのたびに乗り越えて「いっぱしの大人」になっていると思っていた。特に大学時代には数多くのアルバイトをこなし、接客やスタッフや上司とも積極的に接し、ある時はプロのジャズバンドの世界に入り込んでボーカル(歌手)をしていたので、そんじょそこらの社会人以上の経験は積んだつもりだった。
 
 当時の就職戦線は「第1次石油ショック」が終わった時ではあったが、高度成長時代末期で、まだ就職戦線は「売り手市場」であり、留年生の私でも「一部上場会社」に”3社”も合格していたので、就職して働くことを甘く考えていたようだ。
 当時からミーハーな私は、当時人気TVドラマ「どてらい奴」の主人公の社長である”Y社”が第一志望だった。そのことを付き合っていた彼女(現在の妻)に話していたら、たまたま彼女の大阪の叔父から「喫茶店を開く」話があり「先に行って雄ちゃんを待ってる!」とあっという間に大阪・堺に行ってしまったので、男として「大阪に行って、Y社に入社しなくては!」と腹をくくる羽目になってしまった。後で後悔することになるとはつゆ知らず・・・。
 
 さて、そのY社、今では考えられない「超体育会系」の機械器具商社(当時は東京や関西に行った友人たちが”総合商社”に就職していたので、”商社”にあこがれていた)だった。
 大学最後の冬休み、「会社研修」を兼ね博多駅近くのY社福岡支店に1週間アルバイトをして驚いた。機械器具工具の商社倉庫には数10kgの商品が山積みされ、それを上から投げるのを受けとめなければ、容赦なしの罵声を浴び、ホウキの枝で尻を叩かれると言う、今だったら「労働問題」で訴えられそうな、「しごき」が日常的な「本当にこれで一部上場?」と言う会社だった。
 恐らく私だけだったら、第2志望の、東京中心に駅前に店舗展開しているデパート”M社”に就職しただろうが、「大阪で待っている彼女を裏切る訳にはいかない!」とやっとの思いで留まった。そういう意味では彼女との出会いが無ければ私の人生は大きく変わっていただろう。

 その後、Y社新入社員研修2週間を経て、東大阪市の商品管理部に全員配属。毎日のしごきに耐えながら苦しい日々を過ごす。「こんなことで根を上げてどうする。辞めるのは何かをつかんでから!」と、男の意地で地獄の2ケ月を乗り越えた。それでも週1回合える彼女の存在はひときわ大きかった。
 また、5月のGWにあった社内運動会の長距離走で、並居るツワモノたちの面々の中「優勝」、商品管理部に歓喜の胴上げで迎えられた。「商品管理部に”小林”あり」と思われたのは、その後先輩・同僚たちに一目置かれる、と言う思わぬ副産物となり、その後彼女の店にもよく大挙して飲食に来てくれた。体育会系のノリの良さだろう。

 約1年で沖縄に転勤。その後父の勧めで福岡に営業所がある紙製品メーカーA社に転職したが、その後も「しごきに耐えた」と言う経験は、いざという時に大きな力になり、どんな危機にも「大丈夫!死にはしない」と開き直れる、私のタフさの原点となった。
 あれから50年以上経ち、夫婦とも70歳代、2人の息子、4人の孫を持つ、ジイジ・バアバとなる。まさか、鹿児島が第2の故郷になるとは。・・・今年3月には夫婦共に体調を崩し、「元気な高齢者」と笑ってはいれない。(笑)・・・この時の通信・2013年からも13年経ち、「コロナ禍」の苦難を経て、今がある。「愛妻と家族に感謝!」「社員たちに感謝!」「すべてに感謝!」


1973年 大阪府堺市・百舌鳥 仁徳天皇陵(日本一の前方後円墳)