元気通信#196 人には見えない「努力と創意工夫」

 MLB(メジャーリーグ)のポストシーズンに入り、ドジャースの第1戦(日本時間10月1日)、大谷翔平選手の特大ホームラン2発、打った球が全く見えないスイングの速さに驚いた。大谷選手の恵まれた体格と才能だけでは語れない「神」の域すら感じる。野球に賭ける一途な情熱と、私たちには見えない様々な「たゆまぬ努力」が織り合って、それでも全てを語れない「超人」だからこそ、日本人だけでなくアメリカ全土が賞賛する、唯一無二の存在だろう。

 あの「大谷選手」にしても誰にも負けない努力をして、トップを駆け続ける。京セラ創業者・稲盛和夫氏の有名な言葉「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」の究極が大谷選手なのかもしれない、とふと思った。能力で群を抜き、情熱も半端なく、その上に考え方が素晴らしい人間性、最高の存在ではないだろうか。だから知る人すべてが(普通は反対意見も多く見られるものだが・・・)疑うことなく、絶賛するのではないだろうか。

 スポーツやドラマには「クライマックス」が期待され、それに観客が一喜一憂し、ワクワクゾクゾクするのが大きな魅力だろう。しかしその裏にはその世界しか分からない苦悩や挫折を乗り越え、改良改善を積重ね、創意工夫を繰り返し、試合に勝利し、あるいはドラマに感動するのだろう。

 それに比べビジネスの社会はかなり地味だが、根本は全く一緒だと思う。「お客様に喜んでいただく」ことは一緒だし、仕事を通して「従業員を幸せにし、社会に貢献する」ことも同じだ。・・・ただ「観客が一喜一憂したり、ワクワクゾクゾクする」ような派手さは無いが・・・。

 大都市圏のダスキンヘルスレント店舗には鹿児島の数倍の規模の店が多数ある。昔は「(鹿児島は人口が少なく)大都市は人口が多いから」と「状況妄動型人間」特有の、自分の願望を高める努力もせずに、実現困難と諦めていたのが私だった。しかしそういう大型店も最初はゼロからスタートし、10万、20万と積上げて来た歴史がある。私たちには見えない、様々な苦しみ挫折を乗り越え、弛まぬ努力と創意工夫を積み重ねて来た歴史がある。最近はそう思えるようになった。

 そういう先輩店舗の後を追いかけ、「誰にも負けない努力」と「創意工夫を重ね」、チーム一丸となって一歩ずつでも積上げて行けば、数年後には、鹿児島も大都市の店舗に近づけるのでは、と大きな夢を持っている。先ず「会社を筋肉質」にしたその先に「社員の物心両面の幸福」と、鹿児島介護業界を「三方よし」の「健全な発展」に貢献したい。来るべき2030年代はさらに厳しい介護業界になるだろうが、会社としてしっかり勝ち残り、「雇用と事業の受け皿」になり、社会に貢献できる会社に成長する!・・・その時80歳代になる私は後進にその意志をバトンタッチしたい。


魚見岳から見た知林ヶ島(指宿市)

雄ちゃんの今昔物語 VOL,130

私の「3丁目の夕日」(2020年7月・リメイク版)

 私の記憶がかなりはっきりして来たのは、4歳で熊本市本荘町中通りに引っ越してから。熊本市の中心「下通り」から白川をはさんで対岸が本荘町。のどかな田舎・健軍とは打って変わって、本荘は下町で家が密集し、昼間は子供たちがたくさん遊んでいて賑やかだったし、夜はよく大人同士の喧嘩があって、まるで昭和30年代の映画「3丁目の夕日」は当時の本荘そのものだった。

 話が苦手な母は近所の主婦たちとの付き合いに悩んでいたようだし、姉も自然がいっぱいの田舎から下町に来て、のどかな田舎が懐かしかったようだ。しかし私はこの下町にすぐ馴染んでしまった。気づいたら子供たちの輪に入って、パンパン(メンコ)やラムネ(ビー玉)などをすぐ覚え、夢中になってたくさん集めては「僕の宝物」にしていた。近所の同年齢の子と喧嘩をしては泣かせていて、よく母が誤りに行ったそうだ。「喧嘩に勝てないと権力は握れず、社会では生きていけない」と子供心に思っていた。いわゆる世間で言う「腕白坊主」だった。

 特に昭和28年6月26日の「熊本大水害」のことは子供心によく覚えている。最初は少しずつ水が増え、玄関から水が入らないよう、布とかでふさいでいた。ところがどっと水が増え、浸水し始めてから、あわてて1階の畳を2階に上げた。私は「この非日常性」に興奮して急な階段で、不謹慎にも「もっとあふれ、もっとあふれ」と子供心に「わくわくしていた」のを覚えている。

 結局、床上浸水となり、2階があったので我が家は全員2階に避難し無事だった。しかし水が引いた後が大変。大量の泥であふれ、隣の鉄道学校は大量の土砂でいっぱい。今と違い便所の糞尿や下水も混濁しているから、不衛生この上ないものだった。私は「この非日常性」が珍しく、鉄道学校で遊びまわっていたせいか、その後伝染病「赤痢」になってしまいました。・・・その後のことは、今昔物語5月号「私と伝染病」に書いた通りです。

 父は昔の「亭主関白」そのもの。父が帰宅すると家族全員がピリピリしていた。私が遊びを覚えて「パンパン」を集め、数箱ぐらい隠していたのがばれた時、烈火のごとく叱られて、泣きわめく私の前でパンパンが全部燃やされ、天井柱から紐で吊るされて尻を叩かれたことを覚えている。
 しかし、父が優しい時は街一番の「大洋デパート」の食堂に家族を連れて、ごちそうを食べたりした。昭和30年代の、一番の贅沢だった。

 5歳ぐらいの時、父の会社の海水浴に家族で行った。泳いでいるうちに浮き輪の空気が抜け、溺れかかった。幸い近くにいた兄が助けてくれたが、その時の塩辛い海水を「ゴボゴボ」飲んで苦しかった・・・後は覚えていない。母たちは父から火が点いたように怒られたそうだ。
 父は釣りが好きで、兄を連れて父の友人親子と良く釣りに行ってたが、幼稚園から小学校にかけて、私は1回も連れて行ってもらったことがない。その時は理由を深く考えたことはなかった。

 40年前、鹿児島の南薩摩の海岸に当時の仕事(日用品雑貨メーカー)仲間で家族キャンプをした。子供たちもたくさんいて、ちょっとしたすきに次男雄大(現ダスキン店長・当時4歳)が行方不明になり、大騒ぎになった。その時間の長いこと長いこと「溺れていたらどうしよう?」 と焦り始めたころ、ちょうどその時「いたぞー!」との声、振り向けば陸から次男の姿が・・・。全身の力が抜けた。 

 それから何度も家族キャンプをしたが、海には絶対に行かなかった。父が私を釣りに連れて行かなかった理由はこれだったんだ! その時、父の大きな愛をあらためて感じた私です。・・・・・・合掌


昭和32年秋深し(父と小2の私)熊本市健軍町・秋津寮前