元気通信#197 「心を高める、経営を伸ばす」

 「心を高める、経営を伸ばす」・・・京セラ創業者・故稲盛和夫氏の書籍名でもあり、経営の本質は「経営者の心(人間性)を高めることが、経営を伸ばすことになる」・・・経営者は「人間として何が正しいのか」という判断基準に基づく経営哲学が、企業の成長発展の礎となるばかりか、人生哲学として、多くの人々が幸せな人生を送る糧となると言うことです。

 「コロナ禍」が始まり6年になるが、弊社の2大事業の一つダスキンレントオール(以下RA)が壊滅的な被害を受け、売上が90%ダウンし、瀕死の重傷に陥った。しかし早い手術(決断)が功を奏し、RA事業からの撤退、社屋売却、移転とスムーズに移行して、2020年12月から新栄町でダスキンヘルスレント単独事業として再スタートし丸5年経つ。翌21年6月には「盛和塾」の後継塾「鹿児島盛経塾」に72歳で入塾し、「一から経営を学び直そう」と必死に学び、もう4年余になる。

 特に機関誌「盛和塾」(全156巻、約100頁)を毎週1号ずつ読み、感想文を提出する「機関誌マラソン」は3年間継続の超ハードな内容だが、私は第5班・8人でスタート(途中2人挫折)し意見を出し合って切磋琢磨する学びだが、これから得るものが多かった。現在第2弾・第9班で学んでいる。

 入塾2年目ごろからフィロソフィが肌に馴染み始めたころ学んだ「実学をひも解く」の連載は、これまで霧の中だった「財務諸表」特に「貸借対照表」(以下BS)の意味を肌で理解し(知識から見識)、思わず天井を仰ぎ、唸った!「そういう事か!」、「目からウロコ!」とはこう言うことだろう。

 それは、「筋肉質経営」とは、BSの「資産の部と負債の部が少なくて」、損益計算書(以下PL)の「売上が大きく経費が少なくて、利益が多い」のが良い会社(筋肉質の会社)、ということだ。・・・特に「銀行から借り入れて設備投資すること」は「資産の部と負債・資本の部が膨れ上がる」ことだと警鐘を鳴らす。・・・このことをもっと早く知っておくべきだった、悔しがっても既に遅い(涙)。

 他に「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」、「両極端を併せ持つ」の学びも大きい。「小善・大善」の例は「子に厳しく躾せず、自立できない大人になる」、「両極端」は「厳しさと優しさを状況によって使い分ける」こと。2年半前、弊社は思い切って組織を変えたら業績が向上し、赤字から一転黒字に転換。さらに2期連続、売上・利益ともに大きく伸びたことは嬉しい驚きだった。

 3年前、「囲い込み」の実態に憤りを感じ、介護業界の悪弊をなくし「三方よし」の健全な業界発展に貢献することを使命とした。さらに30年代厳しさを増す介護業界に勝ち残るために「筋肉質の会社」に変身し、「三方よしの推進」と「雇用と事業の受け皿」となり、健全な業界発展を牽引する大きな夢を掲げている。これも「機関誌マラソン」で学ぶ中で、少しずつ事業の目的の輪郭が見えてきて、経営がブレなくなって来て、感謝している。これからも健康に留意し「従業員の幸福」と「社会のお役に立てる」よう頑張りたい。


2025.10.28 熊本城・天守閣

雄ちゃんの今昔物語 VOL,131

The History of「ELVIS JOHN 小林」 (2019年8月号のリメイク版)

 約8年前のクリスマス会初出演以来、介護施設等の誕生会やクリスマス会に60回以上出演し、「ELVIS JOHN 小林」ショーを開催している。趣味が高じて、こういう形で皆様のお役に立てることが出来てありがたい。その中でスタッフの皆様から「いつから歌っているのですか?」とよく質問される。そこで、今回は私と音楽活動の歴史を紐解いてみたいと思う。

 物心ついた昭和20年代後半、熊本市でも「男尊女卑」が色濃く残っている下町・本荘で育ったため、歌は女々しいもので、歌とか楽器は女がするもの、と嫌っていた。昭和33年、小3の夏休みに、清閑な住宅地・熊本市壷川に引越し、翌年には我が家もテレビを購入し、海外ドラマや歌番組を見て「こんな夢みたいな素敵な世界があるのか!」、欧米と日本の生活文化の違いに驚き、「いつか私もあんなカッコいい歌を人前で歌ってみたい」・・・気づけば一人、テレビの前で歌っていた。

 そのころは歌謡曲演歌とポピュラーソング(洋楽)があったが、私は断然後者。姉から英語の歌詞ををカタカナで書いてもらい、また和製ポップスとして日本人が歌っていたので、それを覚えては小学校・文化祭等で歌っていた。「きよしこの夜」や「ホワイトクリスマス」の英語VSは私の18番だ。

 中3の時、私に2つの革命が起きた。1つは姉が中古のステレオを買って来たのだ。しかし我が家にはレコード盤が1枚も無く、私は「なけなしの小遣い」から、初めて330円のドーナツ盤レコード「ナット・キング・コール “ルート66″」を買い、朝から晩まで毎日、両面を盤が擦り切れるぐらい聞いた。当時TVではアメリカの「ルート66」「サーフサイド6」にかぶりつき、すっかり欧米かぶれになり、一人で英語で歌いまくり、次第に「人前で洋楽を唄いたい!」と思いようになった。

 もう1つは、中学3年でビートルズの出現とリバプールサウンズ、アメリカでもビーチボーイズやアメリカンポップス、他にシャンソン・カンツォーネまで全世界、私の周りはポップスが満ち溢れていた。高校・一浪時代は「灰色の受験生活が終わったら、絶対唄い、踊り、ステージの主役になって、かっこいい女の子と付き合うぞ!」燃えるようなエネルギーは尽きなかった。

 しかし一浪して入った熊本大学は「大学紛争」真っ只中!構内はバリケードで騒然、私は学内サークルに入ることなく、繁華街のクラブ(大人の社交場)のウエイターとしてJAZZバンドに接触、念願のボーカルとして、人前で唄うことが出来た。その頃「ジョン・レノン」を真似て唄ったら、バンドの連中から「ジョン」と呼ばれるようになった。これが「ジョン・小林」の誕生秘話です。

 ところが、バンドマスターI氏が、昔長崎で活動したバンド仲間が「内山田洋とクールファイブ(唄・前川清)」を結成、「長崎は今日も雨だった」の大ヒットに触発され、なんと「歌謡コーラスグループ」を目指し、博多・鹿児島と巡業しチャンスを狙った。私も冬休みに鹿児島の旧「城山観光ホテル」の最上階、夜景が素敵なレストランで歌った「ラブバラード」は50年後の今も心に残っている。

 その後私は「大学卒業後の就職」の意思は堅く、音楽活動は大学時代までと誘いを断り、就職活動に専念した。このバンドはレコードデビューは果たすが結局ヒットすることなく解散。その一人「隆ちゃん」は熊本でライブハウスを経営し、時々ショーのゲスト(下記写真)として旧交を温めている。

 ここで特筆すべきことが1つ。ステージの空き時間に行く「喫茶店」。熊本市街・白川河畔のビルに、夜景が映える素敵な喫茶店が誕生した。店員は可愛い娘ばかりで、そこに入ったばかりの娘が「ジョンのことを好きだってよ!」とバンド仲間から言われ、その気になって声をかけたのが、愛妻との初めての出会いだった。2人は当時23歳と20歳、あれから53年「As Times Go Bye!」

 社会人になってからは、カラオケの普及で私の「洋楽専門」の珍しさも手伝ってか、「芸は身を助く」と言うが、よく懇親パーティの余興で呼ばれることが多い。

 コロナ禍で中断していた介護施設も今は誕生会等の依頼が多くなった。今冬も既に2件の予約が舞い込み、これからが稼ぎ時!・・・今年のクリスマス会を盛り上げ、多くの施設スタッフに喜んでいただきたい。(ご予約は別紙チラシ参照)


2011.12「クリスマス Party」熟女たちとダンス
in ラ・バンバ / 熊本市 銀杏通り