元気通信#204「先利後資」

 「先利後資」という言葉はご存じですか?「聞いたような・・・?」と考え込む方が多いことだろう。何を隠そう、不肖私が考え抜いた(笑)造語です。「先ず利益を出し、出した利益の中から待遇改善し、求人や設備投資をする」と言う意味です。よく聞く「先義後利」の受け売りか?と、納得しない方が多いかもしれない(笑)。しかし私の20数年の経営者人生の反省と、「鹿児島盛経塾」で学んだ教訓であり、私は常に「先利後資」を念頭に、経営計画を具現化しています。

 弊社の過去の失敗の最たるものは、出店・社屋新築・求人・商品購入等々、必要と思ったら、資金がなくても「借金出来るのも実力のうち」とばかりに金融機関から調達していた、しかし経営は一度は上手く行っても、何度も上手く行くほど甘いもんではない。それが会社体質悪化の元凶となり、さらに6年前の「コロナ禍」にのみ込まれ、イベント予約がほぼ消失し、売上が9割ダウンし「万事休す」。「何とかなるさ」楽天家の私もさすがに頭が真っ白になった。

 会社の存続をかけ動いた事業譲渡、社屋売却、移転は幸いスムーズに展開。これは「まだお前は社会に役立ってない。もう一度チャンスをやるから、頑張れ!」という神の声だろう。もう一度初心に還って学び直そう」と鹿児島盛経塾(故稲盛和夫氏の主催する盛和塾の後継)の門をたたいた。多忙の中、時間を捻出するのに大変だが、身体にじわりと浸透して来るのが、機関誌の「盛和塾」を講読し毎週1号ずつ感想文を提出する「機関誌マラソン」だ。初回は約3年に渡り、8名程度の班で、感想文を提出し、10号単位でコンパを開き、飲みながら忌憚のない意見を出し合う。私は一回目(156号)を終え、現在「2nd ステージ」の35号目を10人の仲間と学んでいる。

 その中で生まれた言葉が「先利後資」だ。・・・「これまでの “足らないものは外部に求める” 他力依存」の悪しき経営から決別し、「まず自分を磨き高める。そして社員の価値観を共有しベクトルを合わせ、組織の生産性を高め、利益を出す。その利益の中から待遇改善し、さらに求人や設備投資をする。そしてさらに生産性を高め、利益を上げる」・・・「売上を最大に伸ばし、経費を最小に抑え」やっと前期は数百万円の利益が出たがまだ目標には至らない。今期はさらに収益性を高め、先ずは「筋肉質の会社づくり」だ。・・・「筋肉質の会社づくり」を基に、「社員の物心両面の幸福」さらに体力をつけ「鹿児島・介護業界の健全な発展」に貢献し、介護に携わる人すべてが嬉々として働ける環境を作る。今期(第26期)はその大事な1年にする覚悟だ!


2024年2月 鹿児島市「マリンポート」から見る「桜島」

雄ちゃんの今昔物語 VOL,139

「案山子」(かかし)の変遷(2022年5月のリメイク版)

 もう27~8年前になるだろうか?、テレビでさだまさしの “案山子” が唄われた時のこと。「元気でいるか、街には慣れたか、友達は出来たか?」「寂しくないか、お金はあるか、今度いつ帰る?」・・・聴きながら目頭が熱くなった、振りかえると妻の目にも涙。

 その時は、長男がK大学工学部卒業後、就職をせずに苦学を覚悟して、映像の専門学校に入学のため上京。ほぼ同時に次男はG大学入学のため熊本へ。2人とも同時に新天地に旅立ち、我が家はあっという間に、私たち夫婦と認知症初期の母と3人だけの暗い寂しい生活になってしまった。毎日息子たちのことを思い出しては泣く妻、心配かけまいと息子たちから電話があるのをずっと待ち続ける健気な妻に、私が息子たちによく手紙を書いていたあの頃のことを、走馬灯のように思い出す。

 「お前も都会の雪景色の中で、丁度あの案山子の様に、寂しい思いをしていないか、体をこわしていないか?」・・・「手紙が無理なら電話でもいい、『金頼む』の一言でもいい、お前の笑顔を待ちわびている、おふくろに聴かせてやってくれ」・・・

 あれから20数年、長男は東京で映像編集会社に就職し、社内恋愛で結婚、家を建て息子(中1)が一人、よくLINEで孫の写真や動画を送ってくれる。次男は鹿児島で就職、その後当社に入社し、大学時代からの彼女と結婚して、家を建て、孫娘(高3と中2)と息子(小2)を連れ時々我が家へ来て、一気ににぎやかになる。コロナ禍の前年(7年前)の夏、長男家族が帰鹿して次男家族と私たちと10人全員で撮った写真は私たちの宝物だ。・・・そして10人全員が久々に揃う「今夏」が楽しみだ。

 今は夫婦だけの日々を過ごすが、経営に追われる日々。あれから20年余、気づけば今度は私たち夫婦が、終活を考える時期になった。これから10数年後、今度は息子たちが、孫たちの旅立ちを見送る「案山子」の心境になるのだろう。

 思い起こせば53年前の3月末、私が大阪に就職する前日、父があらたまって私を呼び、正座して色紙を渡して訓示した。かってない父の行動に私は非常に戸惑ったが、その色紙には「綿密に計画、大胆に行動」と書いてあった。・・・その翌年、私の結婚を見届けたかように、翌月父は末期癌を宣告され、5か月後に62歳で亡くなった。その言葉が私には遺言に思え、今も経営の節目節目に、父の声と共にその訓示を思い出す。

 かたや母は翌日(大阪に行く当日)、私は駅で見送られると泣いてしまうと思い「熊本駅には一人で行くから」、母は寂しそうに門を出て一人見送った。私は照れて「もういいから」と何度も言うのだが、道を曲がるまでずっと見送っていた。・・・父の死後20年、母は好きな短歌・書道・旅行等を楽しんだが、70代後半軽い認知症で鹿児島の我が家を「終の棲家」とし、最後は清谿園特別養護老人ホームに入居、18年前90歳で亡くなった。

 両親から私たちへ、私たちから子へ、そして子から孫へ、伝え伝えて「案山子」の変遷。これが人生の出会いと別れ。親と子は「生まれてから死ぬまで」切っても切れない糸でつながり、それが綿々と幾世代につながって行くもの、としみじみと感じるのは、70歳過ぎて「死」というゴールをより身近に感じてきているからだろうか?・・・今は妻子や社員たちに「良き思い出となって振り返ってもらえる存在」になれるかは分からないが、少しでも精進しなければ、と思う今日この頃だ。


1999年4月 母(80歳)と熊本城内「満開の桜」