元気通信#200 「ダスキンヘルスレント」の未来図!

 毎年1回開催されるダスキンヘルスレント(HR)政策勉強会。今年は2月4日(水)に大阪のスイスホテル南海大阪で開催され、久々に難波(みなみ)に足を運んだ。時間に余裕があったので、心斎橋の宿泊ホテルをを確認した後、寒くなかったのでウォーキングで会場に向かった。

 近くまで行くが会場がどこにあるか分からず、難波駅周辺を右往左往してしまった。ホテルが駅の上にある事が分かるまで、30分ロスしてしまった。考えれば昔はよく通ったところだったが、大阪を歩くのが久しぶりだったのと、高齢による反応の鈍さだったかもしれない。やっと開始時間寸前間に合った。・・・会場は暗転、カチ(拍子木)と共に「般若心経」「四弘誓願」読経・・・「合掌」

 政策勉強会で感じたこと、まず一つは出席の中で女性が増えたこと。そのシンボルが新事業部長に初のHR生え抜き女性T氏、数十年親交もあり、熱いエールを送りたい。もう一つは女性ほぼ全員がスラックスを着用していること。昔は男性はスラックス、女性はスカートが定番だった。これが時代の流れなのだろう。そして近未来のHRはさらに女性が主流になるんだろう。ダスキンレントオールから関わり丁度40年経ち、我が紆余曲折の人生を、老人はしみじみ振り返った。

 翌日は全国一の加盟店(箕面、高槻)さんを見学させていただいた。私は女性会長Uさんに直接電話して予定を入れたが、お伺いして見れば、北海道から九州まで20余名の店長たちが見学に来ていて、みんなのその熱心さに驚いた。

 箕面STは昨年4月に移転したばかりだが、行ってみて驚いた。一つは「ペーパーレス化」が徹底され、どの店でも見られる「利用者様のファイル」等が事務所に全く存在しないこと。すべてのデータが「クラウド云々」で一元管理されていること。3店合同の「フロントオフィス」と呼ばれるコールセンター7~8名で一般、ケアマネ、利用者の電話を受け「クラウド等」を通して、営業や事務、配送等と結ばれ、一元管理され省力化されていること。これには“デジタル音痴”の私でも肚落ちた。「これがHRの未来の姿だ!」

 他店の店長からいろんな質問が飛んでいたが、私にはその内容が今一つ分からなかった。次の機会には弊社の息子や社員たち現場の営業にもぜひ見学して学んで欲しい。

 次に「物流センター」がある高槻STに向かった。規模は卸の倉庫よりも少し大きい。毎日2トンロングで奈良生駒STを含む3店を毎日配送・回収している。箕面STの狭い倉庫にも驚いたが、集中管理するメリットは大きい。

 2日間で感じたのは「井の中の蛙」では駄目だという事。今回「大海を知った」ことで、初めて「HRの未来図」を感じることが出来た。ただし今は遥か彼方であり、今やるべきことは、その未来図を作るためにも、筋肉質の会社になり、その原資を蓄積することだ!「一歩一歩、前進する YTSフレックス」はこれからも続く!


スイスホテル南海大阪

雄ちゃんの今昔物語 VOL,135

続・私の「3丁目の夕日」・・・「ラッパのおっさん」(2020年8月リメイク版)

「昭和30年代」みんな貧しくて、貧しさが気にならなかった時代。家にはラジオしかなく、ちゃぶ台を広げて食事し、食べ終わったらちゃぶ台をたたんで、布団を敷いて寝ていた。夏は蚊よけのため蚊帳は必需品。風呂には2~3日に一回銭湯に通った。幼児の私は男湯と女湯を行き来していたので、父母の伝令役だった。「母ちゃん!姉ちゃん!父ちゃんたちが出るてよ。早よせんね!」女の人は髪や身体を丁寧に洗ったりして、何かと時間がかかるのを既に4~5歳のころ知っていた。

夏は毎日汗をかくので「たらい」に水を入れて土間で行水。熊本の夏は昔から「うったまがるごつ(驚くぐらい)」暑かった! そして冬は家に居ても縮あがるごつ寒かった。

 そのころの「熊本市」は人口30万人余、「本荘町」は市内一の繁華街「下通り」や「新市街」から歩いて10分、市の中心を流れる白川の反対側にある下町。当時の白川の河畔はバラック小屋が軒を並べていた。昭和28年6月26日の熊本水害で流され、再建された代継橋(当時は電車は不通)を渡ってすぐの道が「本荘町中通り」で、角のN魚屋を右折すればいろんな商店が並んでいて、ちょっとした買い物ができる商店街だった。まさしく映画「ALWAYS・3丁目の夕日」そのものだった。

 その中通りの角の駄菓子屋を左折した狭い路地裏に我が家があった。毎日夕方まで(日曜ともなれば朝から)子供たちがパンパン(メンコ)・ラムネ(ビー玉)に興じていたが、その中で一番の人気が「紙芝居」だった。拍子木がなれば子供たちが5円持ってきて、井戸がある広場で飴を買い舐めながら、自転車周りに人だかり。自転車上がステージとなり、紙芝居屋さんの語りで始まる。遠くから「ただ」で見ようとする子がいたら容赦ない怖い声が・・・。「ただ見はいかんよ、家から5円もらって来んね!」(お金が無くて)見れなかった子には、後で興奮しながら芝居のストーリーを教えていた。TVが無かったこの時代、「紙芝居」は「映画」に次ぐエンターテイメントだった。

 その紙芝居屋での一番人気が「ラッパのおっさん」だった。拍子木の代わりに「ラッパ」を鳴らし、子供たちが人だかりになり、他の紙芝居屋さんを圧倒していた。まさに私が初めて出会った“エンターティナー”だった。ある日、駄菓子屋さんで休憩していたスター‶ラッパのおっさん”に遭遇し、尊敬の念を込めて、話しかけた。ラッパのおっさんは「飛行機を持っていて、アメリカにも行ったこつがあるよ!」と言うんです。私はすっかり信じて「すごか~!やっぱ人気者はお金持ちやな~。僕も大人になったら、あぎゃん(あんなに)なりたか!」私が初めて“エンターティナー”の存在に興味を持った瞬間だった。

 10年前の熊本地震までは熊本の実家に泊まると、ジョギング(熊本地震で半壊した壺川の実家を更地にしてからは熊本は遠くなってしまった)で時々本荘に走っていた。中通りはすっかり様変わりし、マンションと駐車場ばかり、残っている家も、木戸やシャッターで商店などまったく無くなり、あの「うじゃうじゃいた」子供たちの姿も全く見られない。井戸はふたがしてあるが雑草の中で健在だった。「広場はこんなに狭かったのか!」と、驚くばかり。旧我が家はリフォームして今は残っていたが、いつまであるのものか。・・・「昭和30年代」は私の心の中で、時々懐かしく思い出すものかも知れない。


熊本市立幼稚園・運動会(昭和30年秋) 1等賞