元気通信#201 「私の1000日行」

 4年前に来鹿された福岡の旧盛和塾のレジェンド(当時80歳代)・Y塾生の例会講話があった。既にY氏は30年前には経営者として成功され、第二の人生としてハワイで余生を送る計画だった。その頃、盛和塾塾長の故・稲盛和夫氏(京セラ創業者)の入塾の面接で「貴方の仕事はまだ完結していませんね。これからが大事です。完結に向かって頑張りましょう!」と仰られ、心の葛藤があったそうだが入塾され、その後自社(グループ会社)をさらに拡充され社会貢献する傍ら、大分の有名なKホテルの再建等にも尽力されたことを話していただいた。

 その時、私は「なぜY氏はハワイで余生を送らなかったのか?」と言う素朴な疑問を抱いた。Y氏にお礼状を書き、質問をしたが私には理解できないまま、今に至る。あれから4年経った先月、30年前の盛和塾全国大会でのY氏の発表(機関誌)を読み、「ガーン」と衝撃が走った。

 それは、Y氏が第2の人生を「楽で、楽しい道」を捨て、さらに「心を高め、利他業の道」を歩む!と決意されたとやっと理解できたからだ。これは故・稲盛和夫氏の「人生の目的」であり、Y氏を「ソウルメイト・同士」と感じ、「貴方の仕事はまだ完結していない。・・・」とエールを送り、Y氏もそれに意気に感じ、それに応えられた「大きな決断」だった。・・・「人生は少しでも楽で、自分が楽しい道を歩みたい」と思う、なまくら坊主の私は、気づくのに4年もかかった(´;ω;`)ウッ…

 また、4年前のY氏の私への返信で「小林さんの1000日行」に取り組んで、と宿題を与えられ戸惑った。「1000日行」とは何をすべきなのか?単細胞の私は「一人禅問答」を繰り替えしたがなかなか見つからない。数か月結論を先伸ばしたが、私なりに「反省ある毎日をおくる」ことをテーマに「1000日日記」を書き続けようと考え、Y氏にもご報告し、スタートした。しかし途中で何度も挫折して中座する。その後も繰り返しの連続で、それでも今年3月10日で「879日」になる。

 故稲盛和夫氏は「心を磨き、真我の純化・浄化・深化をする。その方法として世のため人のため=利他行に努める」ことが「人生の目的」だと言われる。そのために日々精進し、反省に努めることが修行につながる。Y氏の言われる「1000日行」もそういう事だろうか。リスペクトするお二人が唱えられる「反省の日々を送る」という言葉を今まで以上に重く受け止めて、経営に努めて行きたい。これまで「元気」を自慢していた私だが、最近少し体調を崩し「今年77歳の高齢」であることを少し自覚した。それでも健康を第一に、「人生の目的」に一歩ずつでも近づいて行こう。


薩摩川内市 藤川天神/臥龍梅

雄ちゃんの今昔物語 VOL,136

「私をスキーに連れてって」(2024年1月号 リメイク版)

 1986年2月、36歳の時「ダスキンレントオール(RA)鹿児島ステーション」のオープン前に、約1か月の「基本研修」をダスキン大阪本社で受講した。週末夜になると梅田・難波ではスキー板を抱えた若者で溢れていた。みんな「スキーバス」でスキー場に行くためだった。・・・当時は「Japan As No、1」と言われ、日本製品が世界を席巻し、バブル経済で日本中が好景気に沸いていた。1987年末映画「私をスキーに連れてって」が封切られ、ユーミンの主題歌「サーフ天国、スキー天国」(アルバム「SURF&SNOW)と相まって、スキーブームに火が付いた。。

 九州には本格的なスキー場はなかったが、そのブームとバブル景気に後押しされ、1990年、宮崎県五ケ瀬町が町営スキー場を開設し、鹿児島に本格的なスキーブームが到来した。K交通が先に五ケ瀬行きスキーバスに参入し、翌年からはN交通も参入し、2社が激しい競争を展開した。RAも毎年レンタルスキーを仕入れ、一般客に対応した。ところが五ケ瀬スキー場のレンタル数量に限界があり、需要を満たせないと言う問題が起き、RAに目が向けられた。

 まずK交通は1年目はRAと提携したが、2年目からは地元のレンタル店と提携した。代わりにN交通のスキーバスとRAがレンタルスキーを提携をした。それから2~3年需要が増え続け、Kオーナーから仕入れに何度も「待った」が掛かった。RAの冬はイベントやアウトドア用品がなく閑散期でもあり、「スキーの需要増は願ってもないチャンスだ」と説得して理解を得、業績を上げた。その頃から原価を下げるために鹿児島で仕入先を探した。・・・その後もブームは続く。

 1995年当時は、12月から準備にかかり、1月2月はスキーは売上の半分以上を占め、2月連休のピーク時には店舗駐車場にテントを張り、夜遅くまで作業をした。当時、Kオーナーは本業の業績が悪化し、RAの商品購入には消極的で、明らかに商品供給が間に合わず、N交通との要望に応えることがことが出来なかった。Kオーナーは購入の結論を先延ばし返事をくれず、私の判断で仕入れをし、N交通を断らず話を進めた。それでも商品が足らず、苦肉の策が、ピーク時には3トン車に商品を積み、五ケ瀬近く(阿蘇にある妻の実家の工場)を借り、メンテ積替え作業を実施し、翌朝のスキーバスの客に商品を手渡した。もう「負けてたまるか!」と必死だった。・・・後日、私は独断仕入の責任で「退職願」を胸に、Kオーナーと直談、激突。「気ちがいか!」の罵声を浴びたが、「退職願」を出すには至らず。スキーツァーで数百万利益が決め手だったのだろう。

 翌年、さすがに「商品仕入れ」の選択肢を封印し、妻の叔父を通じ、現地(スキー場近隣「阿蘇郡馬見原」)に一軒家を借切り、現地主婦2人と高校生3人を雇い、12月初大型車両でスキー用品を大量に運ぶ。商戦はクリスマスに始まり、年末年始から、約2か月半、毎週鹿児島から通い、N

交通バスにスキー用品を準備した。冬山は初体験で想像を絶する「雪との格闘」だった。一軒家は国道から狭い舗装なしの道で雪が降ればチェーンしても滑り、ぬかるんで動かない。町のGSから平トラを借り、砂利を大量に購入して撒き、何とかスキー用品を運んだ。バスまでの待機中も雪が数10cm積り、雪かきに追われた。夜、一人布団に入り、遠く国道の大型車チェーン音の響きが寂しさを助長した。

 翌年には「九重スキー場」もオープンし、両スキー場に対応できるよう、馬見原の旅館の別館を借り切り、万全を期した。ところが2カ所に分散したせいか、スキーバス集客に勢いを欠き始め、少しずつキャンセルが始まる。その翌年は鹿児島に戻り継続するが、その後も減り続け、スキーレンタルは数年で消滅した。本部や仕入先からは「次はスノーボード」の声も上がったが、「流行・ブーム」の怖さを肌で感じた私は、それには乗らなかった。ここで「継続出来る事業が経営の基本」を学んだ。しかしこの7~8年でスキーレンタルで数千万円の利益を上げ、曲がりなりにも経営の真似事を体験でき、独立の心構えが出来たのは大きな収穫だった。


1987年「私をスキーに連れてって」ポスター