元気通信#203 「成功するまで諦めない!」

 「筋肉質元年」と命名したスタートした第26期だが、4月はレンタル売上最高を更新できた。これも営業が中心にスタッフ全員がチーム一丸となって頑張ってくれたお陰だ。先ず皆に感謝したい。さらにご利用者様やケアマネさんたちにご満足いただけるよう、もっと頑張って欲しい。

 社内的に嬉しいのは前期に比べ一人当たりの実働時間が減少し、「ワークライフバランス」にも少しではあるが貢献てきたのではないか。・・・今年初め「選択と集中」を念頭に、営業を「深く絞って」より効率的に活動し、質の充実「刺さる営業」を心がけて、ご利用者様に寄り添い、ケアマネさんの要望に迅速に応える様努めたことが、少しずつ実って来ているのではないだろうか。

 今期は、半分しか達成できなかった前期目標をどう上回るか、「レンタル純増100万円(2割増)・営業利益率10%」を目標に再挑戦する。営業等スタッフの人間性とスキル両面で「伸びしろは大きい」ので、後は店長や私のリーダーシップと連携にかかっている。皆に営業に専念してもらうために、私は倉庫や在庫管理面の守りを強化し、攻守共に皆をしっかりと支えて行く。

 京セラ創業者・故稲盛和夫氏のフィロソフィに「成功するまで諦めない」という言葉がある。その前提として、成功するまで諦めないでいいような「余裕のある経営」が第一で、そのためには「レンタル純増100万円(2割増)・営業利益率10%」が2030年までの目標となる。第二に誰にも負けない努力を続け、成功するまで諦めない「ど真剣さ」を継続し、2040年には鹿児島でも、3指に入るような存在感のある会社となり、厳しさを増す介護業界の「雇用と事業の受け皿」となり、ご利用者様だけでなく、介護従事者の雇用や事業者救済を目指し、介護業界にも「売ってよし、買ってよし、世間よし」の「三方よし」の健全な発展に貢献したい。

 コロナ禍から6年。コロナ禍で多くの方が犠牲となり、廃業した経営者も多かった。弊社もイベント事業を直撃され九死に一生を得、関係者のご協力の元、迅速な対応と判断で、ダスキンヘルスレント事業として生き残れた。・・・故稲盛和夫氏は「あなたの会社がこの宇宙で必要だったから神様が存在させてくれた」と言われる。だから次は仕事を賭して弊社が社会に貢献しなくてはならない。・・・苦節5年、やっと「筋肉質経営」の第一歩を踏み出した弊社は、これからが社会に対して恩返しする番だ。2040年を見据えて、みんなで一歩一歩高い山を登って行こう!私もこれまでの人生に感謝し、残りの人生で社会に貢献できるよう健康に留意して行きたい。


鹿児島市 マリンポート花火大会 26年4月25日

雄ちゃんの今昔物語 VOL,138

神が降りた!…人生初の試練から抜け出た瞬間(2015年11月リメイク版)

 私の70数年間の人生で初めての大きな試練は、「高校入学」から始まった。私は小中学9年間はトップクラスの成績だった。私の勉強は「楽しく理解しながら学ぶ」と言うのもので、「熊本市選抜中学マラソン」に選ばれたり、人前で歌ってパフォーマンスする、明るいキャラの学生だった。

 入学したK高校は、熊本県内一の受験校で、毎年東大に数十人合格していた。入学直後の試験で、どう間違ったのか、私は高1全体・600人超中で32番、クラスでも2番(1番と3番は、後に東大に合格)と言う好成績、しかも4月末開催の校内マラソンでも高1で2位と、俄然目立つ存在になった。
 その結果に最も驚いたのは、私自身と両親である。勉強のやり方次第では「もしかしたら東大に?」と脳裏に浮かんだ私たちを、誰も咎めることは出来ないだろう。

 父なりにいろいろ調べたのだろう。親戚でも特に成績優秀だった義理の叔父が旧制中学時に、休憩時間にも通学時にも、寸暇を惜しんで教科書を「一言一句」丸暗記した、と父が熱く語った。私も父の教えに従い「台本を覚えるように」寸暇を惜しんで「一言一句」丸暗記が始まった。
 しかし何回読んでも暗記出来ずに、なかなか先に進めなかった。次から次に進む授業に追いつかぬまま、6月の中間テストに突入し、無惨な結果(全体で350番)に終わってしまった。

 ここで自分のやり方を見直せばよかったのだが、その時は「やっていることをもっと徹底する」結論を出し、「夏休み補講」も聞き漏らすまいと、一番前で「一言一句」ノートした。しかし丸暗記が出来ず、全く消化不良の状態で夏休みを終了。9月の実力テストでは400番代に落ち、どうしたらよいのか分からず自信喪失し、机に座っても全く勉強が手につかなくなった。そして1年生最後のテストでは560番台(後ろから数えて32番?)に急降下。あの明るかったキャラも影を潜め、「劣等生」として冷たい視線を感じ、高校が嫌でたまらなかった。

 父はそんな私に「大学は地元の私大か、高卒就職でも良か」と、父の慰めも「親にも見放された」と受止め、絶望する私はまさしく”病的”だった。陸上部も退部、通学するのがやっと、毎日家でふさぎ込む日々は今でいう「ニート」状態だった。一度だけ心配する母に心情を吐露した時、何と母は私以上に落ち込んでしまい「相談する相手を間違った」と苦笑した(今は笑い話)。

 しかし高2のクラス替えで、クラスメイトが成績に関係なく接してくれる雰囲気に救われた。成績は相変わらず500番代の超低空飛行だったが、高校の催しがあればクラスでまず最初に私の名が挙がり、クラス一のムードメーカーに復活した。
 2学期に入り、私は運動会の応援団に選ばれ、連日連夜の特訓、当日も早朝から練習そして本番、楽しい団体生活を味わった。その翌月、東京修学旅行では級友とは徹夜でバカ話に明け暮れ、バスの中ではマイクを独占し「英仏伊3か国語の洋楽ワンマンショー、どこの観光地に行ったかすら全く覚えてない。1週間があっという間に過ぎてしまった。あまりの楽しさに熊本帰りの夜行列車の中で「このまま幸せの中で、脱線転覆しても構わない」と真剣に思ったほどだ。

 その時「神が降りた!」…「これまでの1年半はきっぱり忘れよう!」そして「明日からは、昔のように自分らしく楽しく学び理解し、誰にも負けない努力をしよう!」との思いが沸々と湧いてきた。

 それから世界史・有機化学・数学微積分・日本史等々、一つずつ進めて行った。高校教材は8割方終わっていたので、時すでに遅しの感はあったが、気にせず「目の前の授業に全力投球」して一歩一歩実力をつけて行った。今は懐かしい青春の一コマです!

 故稲盛和夫氏も入学や就職に大変な苦労をされた。特に結核で死を覚悟され、中学大学と受験に失敗、就職に苦労された中で得たものは、素晴らしい考え方やど真剣に生きる強靭な集中力だ。私も微弱だが高校で得た苦しい体験はその後の大きな力になった。


K高校2年の3月の最後の思い出に、熊本市郊外・百花園で(後列左から4番目が私)