元気通信#188 高い山も、「改良改善」の一歩から
2025年1月のレンタル売上が今期末の目標を超え、過去最高となった。「一つの自力、二つの他力」・・・つまり「私の少しの成長」と「社員たちの努力と、大いなる存在(神仏)」のおかげだと、素直に喜びたい。コロナ禍の大打撃から5年、よくぞここまで乗り越えたもんだ。特に会社の自力が付いのは「二つの他力」の賜物で、社員たちに感謝したい。そして1月には求人採用も決まり、いよいよ来期25期(4月から)から弊社の新しいステージを迎える。・・・しかし特段特別なことをすることなく、この2年の流れをさらに進化(深化)させて行くことだ。
私は悪い癖?でつい「上段に振りかぶった表現」をしてしまう。昨年の会議で「会社を改革する」と言ったら、社員から「改革って何をするんですか?」と言われ、一瞬言葉に詰まった。常務(店長)がすかさず「今やっていること(利用者様やケアマネさんの要望)に迅速に、真摯に応えていくことだ」と補足してくれた。今後は経営者視点でなく、現場視点での言動を心掛けたい。
事業をダスキンヘルスレントに一本化して会社移転後、新たな経営理念を作った。あれから4年、やっと一歩前進し、新しいステージに立った弊社の立ち位置を冷静に見て、「経営理念の実現」を考えると、もう一度「高い山」を目指さなければ実現出来ないと、言う思いが沸々と湧いて来た。「社員たちの将来の幸福と、鹿児島・介護業界の健全な発展実現」のためには、弊社が今後地味ながら成長し続けなければならない。現状で安住しては駄目だ、と我に返った。
ダスキン本部の資料を見て驚く。ダスキンヘルスレント(HR)鹿児島ステーションは九州十数店舗中、下から数えた方が早い、また鹿児島の同業者でも10位に入っていないのが実情。しかし逆に考えれば、弊社の「経営理念の実現」に向けた素直に努力する社員さんたちと、向上心溢れる社風を鑑みたら、これからの伸びしろが大きいと言える。一気に高い山を登るのではなく、一歩一歩、愚直に改良改善を積上げて行く姿勢を持てば、必ず結果は後から付いてくるはずだ。
京セラ創業者・故稲盛和夫氏の「経営12か条」の第8条「燃える闘魂」~経営にはいかなる格闘技にも勝る激しい闘争心が必要~の言葉を今こそ噛みしめたい。先ずは、九州HRでも平均以上を目指し、同業者でも10位以内を目指す。その次はさらに上を目指す!・・・常に「負けてたまるか!」の根性を持ち続け、勝ち残って行きたい。・・・繰り返すようだが、これは弊社の損得ではなく、「経営理念の実現」のためであり、「社員たちの将来の幸福と、鹿児島・介護業界の健全な発展実現」のためであり、それが「三方よし」の実現だ。敢えて言えば、それが私の残された人生の生きがいであり、生きた証と言えるかもしれない。

2024年12月・照国神社鳥居前
雄ちゃんの今昔物語 VOL,122
「案山子(かかし)」の変遷(2022年5月のリメイク版)
約20年前、NHK・BSでさだまさしの“案山子”が唄われた時のこと。「元気でいるか、街には慣れたか、友達は出来たか?」「寂しくないか、お金はあるか、今度いつ帰る?」・・・聴きながら目頭が熱くなった、振りかえると妻の目にも涙。
今から20数年前、長男が大学卒業後、就職せずに苦学を覚悟の上、映像の専門学校に入学のため上京。さらに次男は大学入学のため熊本へ。2人とも同時に新天地に旅立ち、家はあっという間に、私たち夫婦と認知症初期の母との3人だけの暗い寂しい生活になってしまった。毎日息子たちのことを思い出しては泣く妻だが、心配かけまいと息子たちから電話があるのをずっと待ち続ける健気な妻に、私が息子たちによく手紙を書いていたあの頃のことを、走馬灯のように思い出す。
「お前も都会の雪景色の中で、丁度あの案山子の様に、寂しい思いをしていないか、体をこわしていないか?」・・・「手紙が無理なら電話でもいい、『金頼む』の一言でもいい、お前の笑顔を待ちわびている、おふくろに聴かせてやってくれ」・・・
あれから20数年、長男は東京で映像編集会社に就職し、社内恋愛で結婚、家を建て息子(小5)が一人、よくLINEで孫の写真や動画を送ってくれる。次男は鹿児島で就職、2年後当社に入社し、大学時代からの彼女と結婚して、家を建て、孫娘(高1と小6)と息子(6歳)を連れ時々我が家へ来て、一気ににぎやかになる。コロナ禍の前年(6年前)の夏、長男家族が帰鹿して次男家族と私たちと10人全員で撮った写真は私たちの宝物だ。今度10人全員揃うのはいつの日だろうか?
今は夫婦だけの日々を過ごすが、経営に追われる日々。あれから20年余、気づけば今度は私たち夫婦が、終活のことを考える時期になった。これから10数年後、今度は息子たちが、孫たちの旅立ちを見送る「案山子」の心境になるのだろう。
思い起こせば51年前の3月末、私が大阪に就職する前日、父があらたまって私を呼び出し、正座して色紙を渡して訓示した。かってしない父の行動に私は戸惑ったが、その色紙には「綿密な計画、大胆な行動」と書いてあった。・・・その翌年、私の結婚を見届けたかのように、父は末期がんを宣告され、5か月後に62歳で亡くなった。その言葉が私には遺言に思え、今も経営の節目節目に、父の声と共に思い出す。
かたや母。大阪に行く当日、私は駅で見送られると泣いてしまうと思い「熊本駅には一人で行くから」、母は寂しそうに門を出て一人見送った。私は照れて「もういいから」と何度も言うのだが、道を曲がるまでずっと見送っていた、ことを思い出す。・・・父の死後20年、母は好きな短歌・書道・旅行等を楽しんだが、70代後半軽い認知症で鹿児島の我が家を「終の棲家」とし、最後はS特養施設に入居し、17年前90歳で亡くなった。
親から私へ、私たちから子へ、そして子から孫へ、伝え伝えて「案山子」の変遷。これが人生の出会いと別れ。親と子は「生まれてから死ぬまで」切っても切れない糸でつながり、それが綿々と幾世代につながって行くものだ、としみじみと感じるのは、70歳過ぎて「死」というゴールをより身近に感じてきているからだろうか?・・・今は妻子や社員たちに「良き思い出となって振り返ってもらえる存在」になれるように、少しでも精進しなければ、と思う今日この頃です。

1999年4月 母(80歳)と熊本城内「満開の桜」