元気通信#164「六波羅蜜(ロクハラミツ)」 

  尊敬する稲盛和夫氏が、8月24日90歳で亡くなられた。生前一貫して「利他の心」を説き「会社経営であれ何であれ、人間として正しいことをやる」ことを判断基準に、「全従業員の物心両面の幸福追求する」経営哲学と、「アメーバ経営」という独特の部門別採算制の両輪で、京セラを創業し、第2電電(現KDDI)を「動機善なりや、私心なかりしか」と自問自答して創業、大企業に育て上げた。さらに不可能と言われたJAL(日航)を再建した「昭和平成の経営の神様」である。

 また常に「世のため人のため」を実践され、日本のみならず世界中の「中小企業」経営者の集まり「盛和塾」では「心を高める」ことが「経営を伸ばす」ことだと説かれ、数多くの塾生に厳しくまた温かく指導された。さらに「稲盛財団」を設立され、先端技術、基礎科学、思想芸術の3部門で著しい貢献をした人に「京都賞」を贈り、その功績を讃え、その中にはノーベル賞を受賞された学者も多い。地元鹿児島では、霧島・薩摩川内に3工場やホテルを作り、1万人以上の雇用に貢献している。鹿児島大学や鹿児島県市にも多大な寄付をされ県民栄誉賞を受賞された。もはや「昔・西郷隆盛」「今・稲盛和夫」と言っても過言ではないだるう。

 私は創業する以前から稲盛氏を尊敬し、数多く著書を購読した。なぜ「盛和塾」で学ばなかったか、悔やまれる。昨年その後継団体である「鹿児島盛経塾」に入塾し最高齢塾生として、息子世代の若い塾生と共に、一から学んでいる。特に毎週一回「盛和塾」機関誌を読み、感想文を提出している。多忙な中、早朝読書し、土・日曜にまとめて感想文を書く。率先垂範して誰よりも働き、その上で学びを継続することで少しずつ身につく。最近やっと少し分かりかけた気がする。

 この「機関誌マラソン」(前述機関誌全157号を毎週1号ずつ読み、感想文を書くこと)で学ぶ中で、稲盛氏がいかに哲学・特に仏教に造詣が深いか、が分かる。その中でお釈迦様が「悟りを開く」つまり「人間性を高める、心を磨いて美しくする」ための修行の方法として「六波羅蜜」を説かれる。
①「布施」(フセ)世のため人のために尽くす
②「持戒」(ジカイ)戒律を守る、煩悩を抑える
③「精進」(ショウジン)誰にも負けない努力をする
④「忍辱」(ニンニク)波乱万丈の苦しい人生を堪え忍ぶ
⑤「禅定」(ゼンジョウ)心を鎮め、常に落ち着いた心を保つ
⑥「智慧」(チエ)この五つに努めれば宇宙を司る
※「智慧」が出る、つまり悟りが開ける、心が磨け美しくなる、と言うことです。

 白隠禅師の「坐禅和讃」では「衆生本来仏なり」と言われる。自我の妄執が融ければ、私たちが本来仏である、と説かれる。私の人生・経営を通して、「六波羅蜜」を実践し、私の心を磨き、人間性を高めたい。それが会社や社会全体にもすべてが良くなる道に繋がることだから。


花岡山墓地から熊本駅周辺を臨む 2022年9月23日

雄ちゃんの今昔物語 VOL,98

「冷蔵庫」の変遷

 昭和30年代の「三種の神器」と言えば、前回のテーマ「洗濯機」と「テレビ」「冷蔵庫」だ。前回は「洗濯機」の変遷だった。私ら「団塊の世代」では「洗濯板」は小学生時代は必需品なので良く知っていたが、一世代・二世代若いケアマネさんは知らない人が多いのかと思いきや「使ったことはないけど知っている」という人、「母が、祖母が使っていた」、さらには「今も小さな洗濯板で靴下を洗っている」という人までいて、意外と身近な存在であることに驚いた。

 今回はその第2弾「冷蔵庫」の変遷で、私感を交え私の記憶をたどってみたい。昭和30年代は「町の氷屋さん」が商店街にはあり、必要な時に核氷(角氷)を買っていた。鹿児島・いづろの「ふわふわかき氷」で有名な氷屋などもその一つではないかと思う。当時各家庭には核氷を入れて冷やす「木製冷蔵庫」は少なく、食堂や鮮魚店・精肉店・八百屋などに置かれ、冷蔵庫の上に核氷を入れ対流させて使用し、氷が解けたら補充する、特に夏には必要な商売だったのではないだろうか。

 我が家で「電気冷蔵庫」を購入したのは昭和30年代後半、中学生のころだった。それまでは暑い夏には、必要な時に「小さく切った核氷」を八百屋から買い、たらいやバケツに入れて飲み物や西瓜を冷やし飲食していた。それが電気冷蔵庫に入れたら冷えるし、製氷皿に水を冷やせば氷ができるので、氷をガリガリ食べながら勉強をしていた。

 当時1ドアタイプがほとんどで、霜が付いてそれを取る作業がひと手間だったが、その便利さで瞬く間に普及して、氷屋さんは激減した。いつの時代にも「新陳代謝」は付き物と覚悟するべきだろう。

 昭和50年、結婚した当初は我が家も1ドアタイプの小さな冷蔵庫からスタート。昭和54年、鹿児島に転勤してまもなく2ドアタイプの冷凍冷蔵庫に換え、さらに子供たちの成長と共に、冷蔵庫の背丈も高くなり、3ドアタイプに切り替えた。

 昭和60年代(1980年代半ば)から「ダスキンレントオール」の仕事に就いたが、当初から家庭用品レンタルの需要が多く、単身赴任者向けの「3種の神器」はレンタルの必需品だった。

 1990年代半ば、子供たちは就職や大学進学。さらに2000年代、鹿児島で同居していた母も特養に入居し、いよいよ夫婦2人暮らし。当然食べる量は減り、その分冷蔵庫も小さくなるはずだが、我が家の冷蔵庫はさらに肥大化して、私の背丈を超え、横も広がり、キッチンの中で大きなスペースを占めている。一体これはどうしたことだろうか?

 食事を作らない(作れない?)私はとんと疎いのだが、それでも妻と近くのスーパーに買い物に行けば、冷凍食品の棚や什器が大きなスペースを占め、冷凍食品が所狭しと並んでいる。あまり冷凍食品を買わなかった妻でさえ、最近はそれを買い調理し「美味しいよね!」と見直している。つまり食生活の変化と「大型冷蔵庫」の発達で大量保存できる食文化に変わってしまったのだろう。

 長男が住む東京に行って驚くのは、JR・地下鉄・私鉄の多さだ。駅の周辺には昔懐かしき商店街が多く残り、車なしの生活が息づいている。むしろ団塊の世代の高齢化で行動範囲が狭まれば、車なしの都会が暮らしやすいかもしれない。現に兄姉や友人たちも東京で暮らし始めた。さらに「持続可能」なスマートシティ構想も言われ、違った社会が実現するのかもしれない。今後も変化を楽しみ、老後を自ら作って行きたい。