元気通信#181「逆境をチャンスと捉える」

 4月25日、「鹿児島盛経塾・4月例会」で岐阜の恩田氏が講話をされた。みなぎるパワーに圧倒され、あっという間に90分が過ぎてしまった。特に印象に残ったのは「何が起きてもチャンスと思う」こと。「逆境に出会う度、天(神)が自分を育てようとしてくれている」と。以前、亡稲盛和夫氏も語っている。「創業時、松下さん(現パナソニック)に鍛えられた。そのため京セラは筋肉質の会社となり、その後海外進出時も、競争には負けなかった。」

 4月18日弊社会議で「第24期経営計画」を発表。3度目の「上限価格」改定で、レンタル売上が数%下がった。3年後も続く。また「販売の選択制」も導入され、3年後はさらに拡大する。さらに国は新たな法規制で業界に厳しく迫って来る。・・・私はこれに対し「天(神)が弊社を鍛えるための試練と捉え、どんな逆境でも勝ち残り、将来の介護業界の一翼を担い、業界の‟健全な発展”に貢献しよう!」と熱く語った。まさにその後の恩田氏の言葉に我が意を得たりの心境だ。

 また恩田氏は「経営者には覚悟が必要」と言われた。覚悟のない経営者で困るのは、お客様、社員とその家族、さらに本人の人生と家族。先ず「覚悟」を持つことは絶対だが、維持し続けるには?・・・前期の私は状況に流され目標達成は50点で終わっていたが、あることで肚をくくり実行し、業績を大きく改善できた。今期はさらにこの覚悟の精度を上げることだ。

 今期の最大の覚悟は「JOB・T」(経営理念を参照ください)の実践だ。特に「思い(価値観)の共有」と「ベクトルを合わせる」ことに全力を上げ、どんな些細なことでも「チーム一丸」を優先するために、これまで抑え気味だった「注意」や「指導」を遠慮しないように努める。イメージとしては「甲子園」に出場することを目標に、高校球児が毎日猛特訓することに似ている。

 昔は「弱み」があれば「外部」に求め、安易に人モノを補強する道(他力本願)を選択していたが、それは誤りだった。今は、「弱み」があれば、まず自らを反省し己の体質改善も厭わず、次に社員たちにも同様に「経営者感覚」を醸成し、効率性・生産性を高め業績を上げる。その上で人モノを補強してステップアップした会社に成長する。

 「逆境をチャンスと捉える」そのベースには「常に明るく前向きに、夢と希望を抱いて素直な心で」(経営12か条)という明朗・積極的考え方がある。・・・・昨年ある義憤から「介護業界の一翼を担い、業界の‟健全な発展”に貢献しする」と言う目指すべき使命が見えて来た。 感謝!


2020・5 鹿児島市 鶴丸城・御楼門

雄ちゃんの今昔物語 VOL,115

私は「75歳・後期高齢者」

 4月28日、75歳の誕生日を迎えた。国の制度上は「後期高齢者」と位置づけされ、保険制度も「社会保険」から「後期高齢者医療保険」に変わる。案内が来て初めて知った。元気なつもりでも、いよいよ高齢者の準備を急がなければならない。(笑)

 昭和30年代、物心がついて、ガキの一人として近隣を走り回っていた頃、おじいちゃん、おばあちゃんはどこの家でも奥に居て「ご隠居」や「お姑さん」として、火鉢の横に居て、お茶を飲んで新聞を見たり、台所からちゃぶ台にお菓子を出してくれたりしていたがほとんど記憶にない。私の両親の祖父は既に60歳代・70歳代で鬼籍に入ったので、わずかな写真しか知らない。祖母たちも離れていたので時々遊びに行った時会っていた。私はガキの頃から走り回っていたので、食事の時しか話したことはなかった。

 父の会社に元旦の新年の挨拶に行くと、(昔の問屋は、手前が店舗事務所、中庭があって、渡り廊下を渡った奥が倉庫と住居になっていて、奥座敷に社長の両親も暮らしていた)私たち社員の子供たちは、新年の挨拶をしてお年玉を受け取り(これが目的)勇んで、2階の子供たちの部屋でかるたをしたり、本を読んだりして、父たちの新年祝賀会(飲ん方)が終わるのを待った。まさにご隠居様という感じだったが、当時60歳代だったのだろう。

 友達の家にもよく遊びに出掛けたが、おじいちゃんおばあちゃんがいる友人宅は少なかった。おばあちゃんがいる家は、お茶やお菓子を出してくれて優しかったが、おじいちゃんはブスッとして愛想が悪く、避けていた。ある日、友人の庭で遊んでいたら、奥からおじいちゃんが出てきて「うるさい!男は1日三言喋れば、後は喋るな!」と怒られてしまった。その後家を出て「三言喋れば、もう喋ったらいかんぞ!」と大声で笑って、外でまた遊んだ。まだ男らしさ、女らしさ、が世間全般の常識で通っていた時代が昭和だった。

 私の大学時代までは確か「定年は55歳」だった。今は70歳でも働ける時代で、私もその先頭を切っているが、昭和の高齢者は今より20歳ぐらい老けていたようで、当時の50~60歳代が今の70~80歳代に思える。

 「生涯現役」を標榜し、今が我が人生で最も働いている私だが、最近めっきり私の年代の現役が少なくなったのも事実だ。ケアマネさんでも昔は私よりも少しお姉さんケアマネさんが睨みを効かせていたが、そういう人たちも定年後暫く嘱託でいたがその後退職をされている。オーナーさんも同様で、特に「コロナ禍」の直前と、4年後の今はすっかり世代交代し、親が引退し子供の世代にバトンタッチしている。また気づけば、どの会合に行っても、私が

最高齢であることが増えて戸惑いを感じる。挨拶をさせられる場面が増え、困らないよう心の準備をする。

 最近は開き直り、私の名刺には「鹿児島・最高齢営業マン」と刷って配っている(それしか誇れるモノがないから:泣)。最近ダスキン本部のFマネジャーと名刺交換をした際、これを見て「‟齢”を取ったら?」と言うので、よく見てみると「鹿児島・最高営業マン」となり、大爆笑❣ 「よしこれからはそれで行こう!と決めた。そして次の名刺からは 「鹿児島・最高(齢)営業マン」と豪語するぞ!


父と私、昭和32年(8歳) 熊本市健軍町・秋津寮近く