元気通信#180「先義後利」と「先利後資」
皆さんは「先義後利」という言葉をご存じですか?この言葉は中国戦国時代の思想家・荀子の「義を先にして利を後にする者は栄える」から来ているそうです。「人としての道義を最優先すれば、利益は後からついてくる」という意味です。ダスキン経営理念の「我れ損の道を行く、喜びのタネまきをする」や、故稲盛和夫氏の言う「利他の心」は同義の言葉だろう。経営者に限らずご存じの方は多いことだろう。
それでは「先利後資」という言葉はご存じですか?「聞いたような・・・?」と考え込む方が多いことだろう。何を隠そう、不肖私が考え抜いた?造語です。「まず利益を出し、出した利益の中から待遇改善し、求人や設備投資をする」と言う意味です。先述の「先義後利」とは随分格が低く、納得されない方が多いかもしれない(笑)。しかし私の20数年の経営者人生で猛省した中から学んだ教訓であり、今も私は「先利後資」を念頭に、今期経営計画に具現化しているところです。
過去の失敗の最たるものは、出店・新築・求人・商品購入、これらを必要と思ったら、資金がなくても「借金出来るのも実力のうち」とばかりに金融機関から調達していた、しかし経営はそんなに甘くはない。それが会社体質悪化の元凶となり、さらに4年前の「コロナ禍」の大津波で、イベント予約がすべて消失し「万事休す」。「何とかなるさ」の私もさすがに頭の中が真っ白になった。
会社の存続をかけ動いた事業譲渡、社屋売却、移転は幸いスムーズに展開。これは「まだお前は社会に役立ってない。もう一度チャンスをやる、頑張れ!」という神の声だろう。もう一度初心に還って学び直そう」と盛経塾(故稲盛和夫氏の主催する盛和塾の後継)の門をたたいた。
塾で学ぶ中で生まれた言葉が「先利後資」だ。・・・「足らないものは外部に求める他力依存」の悪しき経営から決別し、「まず自分を磨き高める。そして社員の価値観を共有しベクトルを合わせ、組織の生産性を高めた結果、利益を上げる。その利益を基に、待遇改善や求人や設備投資をする。そしてさらに生産性を高め、利益を上げる」・・・「売上を最大に伸ばし、経費を最小に抑え」前期は数百万円、収益が改善した。今期はさらに収益を高め、いよいよ会社の未来づくりのための求人や設備投資の第一歩としたい。・・・いよいよ「筋肉質の会社づくり」を基に、「社員の幸福」と「介護業界の健全な発展」を作って行く、今期(第24期)はその1年にする決意です!
2024・2 鹿児島市「マリンポート」から桜島
雄ちゃんの今昔物語 VOL,114
「鬼父の愛」 ・・・2010年5月号 VOL.4(リメイク版)
去る2010年5月22日(土)(今から14年前)、熊本の法要会場で、亡き母(90歳)の「三回忌」を行った。親戚あわせて12名(+孫1人)のささやかな式典だったが、その中で最も盛り上がったのが、葬儀(告別式)でも使用した長男正悟夫婦が制作したDVDの上映だった。
我が家にあった母のアルバムや、私や子供たちのアルバムから抜粋し編集したDVDだから、画面を止めて「これが誰、あれは誰」「えー!本当に」「可愛かったね!」「若いね!」と大いに盛り上がった。2年前葬儀の時は静寂の中での上映だからそんな雰囲気にはならなかった。2年経って、母を懐かしみながら、親戚もまた自分たちの過去を懐古したようだ。
35年前(今から49年前)亡くなった父の話も出た。私の顔形は父そっくりだそうで、私自身も自分の免許証の写真を見て「親父に似て来たな」と最近は驚くことも多い。姉が「お父さんよりは愛嬌があるけどね」と笑っていたが、私の叔母(母の妹)たちにはほとんど話をしない父だったようだ。
熊本市本荘にいる時は、私は近所のガキ大将で、毎日朝から、油でテカらせたパンパン(めんこ)(当時はチャンバラ映画の主役の写真入り)に夢中になり、たくさんパンパンを集めては「宝物」にしていた。ある時、理由は覚えていないが、私が懇願して泣き叫ぶのに、父からその「宝物」を全部取り上げられ、焼かれてしまったことがあった。また縛られ天井から吊るされ尻をたたかれたことも覚えている。何で怒られてたのか覚えてないが、とにかく激昂するとすごく怖い父だった。不良っぽいのを嫌っていたようだ。
5歳ぐらいの時、父の会社の海水浴に家族で行った時のこと。兄と競争して泳いでいるうちに浮き輪の空気が抜け、私は溺れかかった。幸いにも兄が助けてくれたが、その時の塩辛い海水を「ゴボゴボ」飲んで苦しかったこと・・・後は覚えていない。母たちは父からかなり叱られたようだ。
当時父は釣りが好きで、兄を連れて父の友人親子と良く釣りに行ってたが、私は何故か一度も一緒に行ったことがない。しかしその時は理由を深く考えたことはなかった。
25年前(今から39年前)、鹿児島の南薩摩の海岸に日用品雑貨メーカーで家族づれ(数十人)のキャンプをした。ちょっとしたすきに次男雄大(当時5歳・現ダスキン店長)が見えなくなり、全員で大騒ぎして捜し回った。その数分の長いこと長いこと。「溺れていたらどうしよう?」嫌な予感が・・・・・・ちょうどその時「いたぞー!」と陸の方から次男の姿が・・・。
それから何度も家族キャンプはしたが、海には絶対に行かなかった。父が私を釣りに連れて行かなかった理由もこれだな! その時、親の愛をあらためて深く感じた。 合 掌
父は昭和50年胃がんで62歳で他界し、私は今年満75歳、父をはるかに超えた。子供たち・孫たちもみんな健やかに育ってくれ、こんな私の素晴らしい人生に感謝したい。これも両親が私を生み育ててくれたおかげである。これからも残された人生で少しでも社会に貢献し、いつか天国で両親に再び笑顔で会える日を楽しみにしたい。
父と私、昭和32年(8歳) 熊本市健軍町・秋津寮近く