元気通信#186「好調な時、さらに仕事に打ち込む」  

 今夏の猛暑は凄かったが、弊社はそれにも勝る忙しさとなり、現在も進行中だ。11月は大幅アップで最高となる見込みだ。夜遅くまで頑張ってくれる社員たちに感謝しかない。これを継続するには増員しかないと、11月から求人するが、昨今の求人難で反応は鈍い。弊社にとっては組織を成長させるチャンスであり、求人ノウハウを蓄積する良い機会だと明るく受け止めている。

 コロナ禍に直撃され丸4年、その間弊社は事業を統廃合しヘルスレント事業一本に絞り、やっと努力が実り始めたと、内心嬉しい。しかしこれくらいで安心安住したら行けないと、自分自身に強く言い聞かせている。私の人生最後の仕事は「従業員の物心両面の幸福」と「介護業界を”三方よし”の健全な発展」と言う新たな高邁な経営理念を作り、必ず実現する、と誓っている。

 私の社会人人生50年・経営者人生20余年を振り返れば、急上昇・急下降「ジェットコースター人生」の繰り返しだ。それも「登り切ってもいないのに下り坂」(綾小路きみまろ談)とつい苦笑してしまう。自分なりに分析すると、①ちょっと良くなると謙虚さを忘れ、そこで安住する、②目標が低いので楽な経営に甘える、③趣味の音楽やマラソンに興じ、仕事が二の次になる。すべてが私の「利己心」が強く「利他心」が弱い証左だ。家族や過去の社員たちに申し訳ない。

 10数年前、当時JAL会長だった故稲盛和夫氏が野球のレジェンド・松井秀喜氏と対談した。「松井さんが練習に一番打ち込んだのは、どんな時ですか?」との稲盛氏の質問に、松井氏は「打撃が好調な時です。好調な時は怖くて、特に練習に打ち込みました」と答えた。・・・この答えを聞いて、松井氏の謙虚な姿勢、同様に稲盛氏の仕事に対する哲学を知り、私とは全く真逆だと、愕然とした。仕事が不調な時は必死になるが、好調な時は先述の通り安住するので不調になることが早い。だから私はいつも「登り切ってもいないのに下り坂」なのだと、身に沁みた。(泣)

 今まさに好調を迎える大事な時だ。今度は正しい判断が出来るよう「誰にも負けない努力をして、私の心境を高めよう」。そして目標を高く掲げ、社員のベクトルを合わせ、何としても達成する強い意志を抱く。・・・売上向上と経費削減の結果、会社を適正利益が出たら、先ず社員の待遇改善、鹿児島福祉用具業界の待遇のトップを目指す。併せて「筋肉質経営」の確立のため、更なる売上アップと適正利益の常態化を目指す。次に鹿児島・介護業界の健全な発展(三方よし)のために、シェアを高め、鹿児島で存在感のある福祉用具業者の一角を占める。・・・故稲盛和夫氏が77歳でJAL会長を務め、3年間でJALを再上場させたが、私はまだまだ75歳と若い!これから遅咲きの花を咲かせ、経営理念の夢を実現させたい。それが私の人生最後の務めである。


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雄ちゃんの今昔物語 VOL,120

大学時代は、アルバイト三昧

 浪人苦節1年、熊大・法文に入学した昭和44年春は、全国の大学紛争で大荒れで、大学の入学式は中止、学部ごとの入部式もキャンパス内ではヘルメットの学生たちのシュプレヒコールの異常な中、強行された。その後も授業再開の目途も立たず、GWまで何もなく、義兄の紹介で、建設業のビルの空調の断熱の作業を、医学部に入学したM君と一緒に数週間したのが初アルバイトだった。アルバイトはこんなにきつく大変なのか、毎日「後何時間?」と時計を見ながら仕事する日々だった。最初のバイトだったが、一番辛くて、最も私に合わないバイトだった。

 その後も授業再開は遅れ、夏休みに入った。当時陸上部長距離に入部していたので、阿蘇のドライブインで働く大卒の陸上部先輩の声掛けで、私が友人を誘い「皿洗い」のバイトを8月20日の授業再開まで数週間住込みで続けた。皿洗いから始まり、皿を並べたり、店内の清掃、最後はうどんコーナーでうどんをお客様に作って出したり、あっという間の数週間。結構楽しかった。ちょうどアメリカのロケットが初めて月面着陸に成功し、「月の石」が話題になったのがその頃だ。

 大学が授業再開すると、熊大生と言うことで家庭教師の話が数件あった。その一つが従弟だったので授業料を安くして「何人か一緒に連れて来い」と、数人からスタートした。5教科楽しく理解するよう努め、最大6人をまとめて教えた。特に大好きな歴史は、ドラマのように解説して人気があった。生徒たちの案で、英雄ナポレオンの姓から「ボナパルト塾」と称した。しかし6人のレベルがあまりにも違うので、どこに合わせて行けば良いかが悩みのタネだった。彼らが中3に入るとき決断し、2人だけを家庭教師をするように変更し、最後は2人とも希望高校に入学でき、安堵した。

 その間バイト三昧、昼間は事務文房具店の配達や、中華料理店の接客、レコード店の店員と、人と接するバイトが多かった。しかし「どうしても人前で唄いたい」との思いは強く、先ずはクラブのボーイとなり、ジャズバンドの人たちと音楽談義から始まり、そのまま大好きな洋楽を唄わせてもらうようになった。当時は「歌謡コーラスグループ」全盛の時期で、特に長崎出身の「内山田洋とクールファイブ」が人気が出始めた頃で、バンドマスターのI氏が内山田洋と昔一緒にバンドを組んでいた(当時、「前川清」は新米だった)ので、自分たちも「歌謡コーラスグループ」を目指し、売り込みのため、博多や鹿児島(城山観光ホテルの旧館時代)を居に転々とし始めた。私も「一緒にしないか」誘われたが、卒業後は上場企業に就職し、自分を試してみたい、とお断りした。

 私は留年して覚悟の5年目。授業料を自分で稼ぐために、レコード屋でバイトしていた頃、鹿児島から戻って来たバンドが、熊本に戻って来て、キャバレー「銀河」(鹿児島で言えば有名歌手が多く生まれた「エンパイア」か?)に入り「演歌歌手は居るが、洋楽歌手lが欲しい」と言うことで私が誘われ、(カラオケがない時代)私も社会人になって歌うことはないだろうと「歌い納め」の気持ちで復帰した。その後の事は「雄ちゃんの今昔物語」VOL118号「緋牡丹お民」をご覧ください。

 ちなみに、付き合い始めたころ彼女(現在の妻)がバイトしていた喫茶店は、熊本市内の白川沿いの夜景がきれいなガラス張りのお洒落な店で、店員もユニホームも内装もゴージャスで、目を見張るものがあった。当時の人気店で、お客も多かった。

 ところがある日突然、経営者が消え店は閉鎖され、従業員や彼女の給与も未払いとなり、騒然となった。「何としても給料だけは!」と私が憤慨すると、彼女は言った。「給料なんて要らない!ここで雄ちゃんと知り合えたんだから、もういいの。」・・・彼女のこの言葉が私の心にグサッと刺さった。


1972年秋・熊本市白川河畔 大学時代の私と妻