元気通信#194 「厳しいスタート」が良し!

 コロナ禍から5年経つが、この間で私が大きく変わったのは「他力依存」から「自立」の道を歩み始めたことだろう。経営者になってから20数年、私が成長することで社会や経営の本質を見極めなければならないのに、周囲の強い存在(団体や成功者)のやり方を鵜呑みにし、いつもブレていたと猛省だ。今は己の心境を高め、周囲の意見を聞き、自分の意思で判断するように努めている

 「自立」無くして「利他」無し。・・・(76歳になっても)まだ未熟な私は、まず会社の「自立」を優先しつつ、出来ることから「利他」を進めるよう心掛ける。最近、弊社経営理念「従業員の物心両面の幸福」のため、待遇を改善した。会社は小さくとも常に「待遇は介護業界一」を心がけたい。

 経営者は「誰にも負けない努力をする」ことと自覚して以来、高齢となった今、私は我が人生で最も働いている。始めは自分だけの活動だったが、最近は「全体最適」を判断基準に、「会社にとって」あるいは「社会にとって」最適であることを心がけ、私もその一員となり社員たちと効率的・生産性の高い活動を心掛けている。昨年来の業績の向上もその成果だろう。チームワークも最高で、皆がそれぞれ渦の中心なのに、常に協力する姿勢が素晴らしい。お盆明けには新人が入社するが、新人だけでなく私たちも嬉々として働き「働きがいのある良い会社」を作って行きたい。

 京セラ創業者・故稲盛和夫氏の「鹿児島盛経塾」に所属し、学びを深めているが、数年前、著書「実学」の一節「筋肉質経営」を読み、「目からウロコ!」・・・自分は今まで何と危なっかしい経営者だったのだろう、反省させられた。またこの原則に則り経営すれば必ず成就する、と確信した。

 「筋肉質経営」とは、貸借対照表の「資産の部と負債の部を減らして」損益計算書の「売上を大きく経費を少なく、利益をたくさん出す」のが良い会社であり「筋肉質の会社」と言う。その真逆が「借金して投資(社屋建設や機械購入)する」ことであり、15年前の弊社そのものだ。「先利後資」(私の造語:貯めた利益から新たな投資をする)を原則にし、2030年には「筋肉質」の会社に変貌したい。その実現に向け、強烈な願望を心に抱き続け頑張りぬきたい。

 2027年の介護保険改定に向けて、さらに業界は厳しさを増す。今年既にM&Aが見られるが、今後は「弱肉強食」は顕著となり、倒産・廃業・合従連衡が頻繁に見られるだろう。心配なのは「強者が力づくで弱者をねじ伏せ、利用者や介護従事者が犠牲になる」ことだ。これは介護業界の「健全な発展」とは言えない。常にその姿勢を正しつつも、弊社の経営理念「鹿児島・介護業界の健全な発展」である「弱者の救済」つまり雇用や事業の存続の受け皿になる力を持つこと、これこそが本当の「利他」と言える。その実現に向け、今はしっかりと「筋肉質経営」に邁進したい!


薩摩富士・「開聞岳」 指宿市開聞十町

雄ちゃんの今昔物語 VOL,128

「奴隷船の記録」を読み、今の幸福に感謝!

 1979年春に鹿児島に転勤。その一年後新製品がヒットし「成功するとこんなに市場に受け入れられるものか!」鹿児島出張所が社内で全国一になり、営業に大きな自信を持った。そんな矢先、愛妻の実家から「会社設立をするから、責任者として帰って来て!」と何度も口説かれた。仕事も業績も絶好調、会社の評価も高く、仕事を変わることは考えられなかった。お盆に妻の実家に帰省した時に、義父から熱く説得され、私も「いつか独立したい」と思っていたので、若さと勢いで退社した。工場の設立から京都研修を終え、創業準備に奔走した。しかし世間はそんなに甘くなく、創業後間もなく義父・義弟との考えの違いが鮮明になり、1年後には退職を決断した。この時の挫折は大きく、世の中の不幸をすべて背負ったような苦悩だった。妻も実家と私との板挟みでそれ以上に苦しんだことだろう。そして私と共に50年歩んでくれた事に、今さらながら感謝したい。

 「覆水盆に返らず」とは言うものの、1982年春、幸い鹿児島に戻りA社に復職することが出来、以前以上に頑張った。しかし当時は大手メーカーKa社の進出が始まり、全国のシェアは次第に落ち続け、鹿児島出張所の業績は良かったものの、九州でも福岡・熊本と崩れ始め、鹿児島が最後の砦となっていた。私自身「大手ブランド力」の前には「個人の営業力」に限界を感じていたのも事実だ。・・・数年後A社は大手メーカーKo社に吸収された。

 1986年夏、A社福岡支店の支店長が退社することで、私が次の支店長に指名された。引継ぎで宮崎の代理店F社を訪問した時、F社社長から「小林さん、丁度良い時に来た!」と声を掛けられた。F社2代目・K社長が「ダスキン・フランチャイズのニュービジネス‟ダスキン・レントオール(以下RA)”をやる」と言うことで、鹿児島・宮崎の事業部長&鹿児島店長をやってくれないか!」と言うことだった。最初は福岡転勤もあり躊躇していたが、「ダスキン」というブランド力と「総合レンタル」というニュービジネスに惹かれ、1987年春、RA鹿児島の店長という全く新しい仕事に就いた。37歳だった。

 それまでは営業一本でやって来たのが、「総合レンタル業」で、設営やメンテ、倉庫整理、接客、電話応対とあらゆる業務の要となり、マネジャー業務が主体のため、身体がなかなか慣れずに、初めて年齢を感じたものだ。最初の1年は認知度が低く、売上が上がらず、ワンマンK社長のプレッシャーが凄く、精神的にも体力的にも「忍」の一字だったが、2年目からは営業の成果と時代の波に乗り、毎月2割以上成長し、F社の利益に大きく貢献した。

 しかしそれから数年後、バブルは崩壊し、価格破壊が始まり、東南アジアや台湾韓国から安い商品が輸入され、「レンタルのメリット」である「安さ」が薄くなった。さらにF社の本業の「日用品雑貨卸」業界の合従連衡の嵐で厳しさを増し、K社長の私に対する圧力が増した。当時のことは、#108「私の8・6水害」や、#111「if・vol.2」や#112「私をスキーに連れてって」にも載せているので割愛する。今振り返っても壮絶な10数年だったと述懐する。K社長には精神・肉体両面で鍛われ、経営者根性を身に着けたと今は感謝している。

 2000年3月、私は50歳で「甲状腺腫瘍」で入院するが、お見舞いに来たK社長が「これで少しは喋らなくて良かった」と冗談を言われて帰られたが、6月にはK社長が癌で入院手術、東京に転院するが、2001年1月、55歳で帰らぬ人に・・・。東京転院の直前、私たち夫婦が呼ばれRA鹿児島の譲渡を言われ、私たちはお受させていただき4月に弊社を創業した。

 あれから20余年、良い時も厳しい時もあったが、特に「コロナ禍」では最悪を覚悟した。故・稲盛和夫氏は「一つの自力」「二つの他力」と言われるが、私自身も成長し、社員たちや家族や関係者、さらには宇宙霊(Something Great)の力で、さらに高みを目指して行く。「従業員の物心両面の幸福」を追求し、一歩ずつ実現中だ。さらに「鹿児島・介護業界の健全な発展」を実現すべく、厳しい介護業界で力強く生き残り、雇用や事業の受け皿になり、真の「鹿児島・介護業界の健全な発展」に貢献して行く!・・・気がつけば「私はいつも良い方向に導かれている!」


2025年7月8日 ジイジ・バアバのアイドル「ELVIS JOHN 小林」
inデイサービス笑顔(吉野)