元気通信#199 77歳・夢は大きく!足元の一歩から
明けましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。心より御礼を申し上げます。
本年はさらに皆様のお役に立ちますよう、迅速・誠心誠意・継続を心掛けてまいります。本年もお引き立てを賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
京セラ創業者・稲盛和夫氏経営12ヶ条の第3条に「強烈な願望を心に抱く」のサブタイトルに「潜在意識に透徹するほどの、強く持続した願望を抱く」がある。潜在意識とは顕在意識と違い「意識の下に沈み込んでいて、意のままにコントロール出来ない意識」であり、自在に活用するには、「強烈な体験をする」か「繰り返し繰り返し何度も経験すること」だ。・・・しかし私は正直、この経験をしたことがない。今年はぜひ「顕在化出来た!」と実感できる年にしたい!
まだ仮説だが、「強烈な体験をする」か「繰り返し繰り返し何度も経験すること」ならば、前者は天変地異や倒産や大病という強烈な体験で、敢えて経験することは難しい。後者の体験を重ねる中で潜在意識を顕在化させること。そのために何としても「誰にも負けない努力」をしなければならない。今年はぜひこの体験を積み重ね、願望を顕在化させたい。
前号「夢がカラーで見える?」でも書いたが、最近は夜眠ってもBS(貸借対照表)が夢に現れる。寝ても覚めても、夢と現実の境が曖昧になっている。これが「夢がカラーで見える?」と言うことか?・・・しかし現実に戻ると、まだ理想とする夢は遠い。これは私の思いがまだ弱いと言うことと、私の努力が足らないと言うことだろう。甘えることなく、もっと精進したい。
昨年の求人活動は良い血肉となり、良い人に巡り合えた。今はOJTを中心に研修を積んで良い人材に育っている。今年は良い社風の中、先輩たちと「チーム一丸」となった理想的な組織になるはずだ。大いに期待したい!もう一度、「経営理念」という夢を実現するために、さらに従業員の物心両面の幸福を追求し、介護業界を核に鹿児島の健全な発展に貢献して行く覚悟だ。
故稲盛和夫氏は77歳にして、事実上倒産したJAL(日本航空)の再建に当り、3年も経ず再上場させ、世間をあっと言わせた。偉人と比較して申し訳ないが、私も今年は77歳・喜寿を迎える。偉大な先人に負けることなく、「夢を大きく掲げ」て飛躍の年にしたい。しかしやることは、社員たちと汗と知恵を絞り、地味に一歩ずつ前進する。弊社の社風には既にその土壌が培われている。・・・先ずは、ご利用者様とケアマネさん・介護従事者さんたちのお役に立つことだ!

令和8年 初日の出 与次郎から桜島
雄ちゃんの今昔物語 VOL,134
昭和30年代の「お正月」(2022年1月リメイク版)
もの心ついた昭和30年代、7~8歳だっただろうか? 1年のうちで最も楽しく特別な日で、日本中がその「正月」だけは日常とガラッと変わる日である、と気づいたのは・・・。
まず年末になると、ご近所同士(隣保)で一斉に家の大掃除をやったもんだ。床から畳を上げ外に日干し、障子紙を張り替え、昔ながらの土間や便所から、押入れ、各部屋の清掃から、古本等の整理、ゴミだし。新聞紙は切って(ティッシュ代りに)お尻ふきに使っていたから、古本と共にゴミに出すことはほぼ無かった。
いつ父のボーナスが出ていたのかは知る由もないが「もういくつ寝るとお正月」と言うくらいになると、繁華街「下通り」の熊本一の百貨店「大洋」に行き、ズボン・靴・ジャンバーから下着まで買ってもらい、お正月になるまでは部屋の一角に飾っていたものだ。
父は徹底した無神論者。一緒に墓参りに行くこともなく、母が私を連れて花岡山(熊本駅から見える山)の小林家の墓と、龍田山麓の母の実家伊藤家の墓に行っていた。
正月になるとどの店も休みだったので、各家庭が最低正月3が日分の料理を大みそかまでに作るので、母は一人でてんやわんやだった。姉も手伝っていたのだろうが、昔は「男子、厨房に入るべからず!」の時代。私は台所の様子はほとんど記憶にない。
父は、日用品雑貨の卸問屋「T商店」の経理・総務をやっていたので、大晦日は営業の集金を終えてから業務終了、帰宅は除夜の鐘が鳴って「午前様」だったそうだ。
当時はテレビはなく、ラジオの「紅白歌合戦」を聞きながら年を越した。待ち遠しかった「お正月」がやってきた。朝目が覚めると、いつもは喧噪な下町・本荘町の路地裏の住まいは静寂、世の中すべてが「お正月」に一変。いつもの日曜日なら朝から子供たちのうるさい遊び声が聞こえてくるのだが、今日からは静かで上品な「お正月」のスタートだ。
いよいよ元旦になって初めて袖を通し、靴をはいたまま外に跳び出し、外出していた。昨日までのフセ(今は死語?)のあたったズボンや靴下や、穴のあいた靴をはいた「ハナタレ小僧」が、一夜にして「良家の坊っちゃん」に変身する瞬間だ。
父は正月でも「普通のご飯でいい」と言う人だが、元旦の朝だけは全員で唯一「お雑煮」を食べていた。父以外は「神棚・仏壇」にお参りして、母の音頭で小さい声で「明けましておめでとうございます」。父は「正月だけんて、何が目出たかもんか!」と頑固一徹。正月だけは飲むのが許された「お屠蘇」は美味しくて隠れて何度も飲んでいた。
遅い雑煮を食べ終わると、新調した洋服・靴を履いて、父と共に会社に「年始の挨拶」が始まる。「T商店」は卸問屋街「萬町」にある戦前からの老舗卸問屋の「会社兼社長宅」。店先事務所を抜け、中庭のある長廊下を抜けると、奥に先代社長の部屋があり、社員たちが大勢子供を連れ「年始の挨拶」だ。子供たちの目当てはもちろん「お年玉」。神妙な顔で挨拶をしてお年玉をいただくと、その後は子供たちは2階の大部屋に連れて行かれ、子供同士で雑煮とかおせち料理やおかしを食べたり、本を読み、一緒に遊んでいた。その間、社員たちは1階の離れで、酒が入って賑やかな大宴会となっていた。
夕方に宴会がお開きになると、春竹町の叔母(父の妹)宅へ。早速叔母さんが私に「お年玉」を上げようとするが、父は「よか。うちもやらんけん」と押し問答。「オイオイ、僕はどうなるんだ!」結局「僕のお年玉」は水泡と化す。頑固な父のせいで、私ばかりか、従兄弟のFちゃん、Hちゃん「幻のお年玉」となってごめん。
こうして元旦はあっという間に終わった。2日からは父は出社、昔の会社務めは過酷だった。私は新調の服を着て母方の実家に行ったり、帰ってからは雑誌の付録の「福笑い」や「すごろく」「かるた」をして3が日遊んだものだ。

昭和31年元旦 会社前で、T社長ご令嬢2人と一緒に
父から引き寄せられて「苦しか!」