元気通信 #125「感性的」な悩みをしない!

今回の#59「雄ちゃんの今昔物語」をお読みいただけると分かることだが、暗黒の高校時代から立ち直るのに1年半もかかってしまったのは、失敗を重ねても「1からすべて覚えなくては」がトラウマで止まってるうちに、授業も学友もどんどん前に進んでしまい、その距離を埋めれないばかりか開くばかりで、次にどうしたら良いのか、16歳の私に大きな壁として立ちはだかった。

くよくよ悩むばかりで、将来の夢(有名大学入学や一流企業就職)がもろくも崩れ、焦って何も手がつかず、好きな洋楽を聞いても心が晴れることはなく、ただ暗い孤独な無気力な日々が過ぎていた。

これは、京セラ創業者・稲盛和夫氏曰く、「感性的な悩みをしない」と言うことに真逆だ。

以下は氏の著書「誰にも負けない努力」からの一節だ。

人生では、心配事や失敗など、心を煩わせるようなことがあります。

しかし起こってしまったことをいつまでも悔やみ、思い悩んでも意味がありません。

悩み続けることは、心の病を引き起こし、ひいては肉体の病につながり、人生を不幸にしてしまいます。

既に起こってしまったことはいたずらに悩まず、新しい思いを抱き、新しい行動に移って行くことが大切です。(以上)

今さらながら、あの時私は、よく心の病、肉体の病にならずに済んだものだ、と妙に感心する。

そうならなかったことを、天に、家族に、恩師学友に、感謝したい

また人生初の大きな苦難だったため1年半と言う大切な時間を有したが、「過去と決別し、今からは誰にも負けない努力をする」と言う思いを抱き、行動に移したことで大きな壁を超え、人生の道標となり、今があることにも感謝したい。

その後も「感性的に悩まない」には留意してきた。例えば、いよいよ大学入試が間近になる冬休み以降、よくジョギングで龍田山に登り、大声を出してすっきりして帰ったりした。

しかし社会人になり、家庭を持ち子供が出来、長となり部下を持ち、転職して社長との確執、そして独立創業して経営者になれば、もっと大きな苦難・困難が形を代えて現れる。

経営での最大の問題は「人と金」に尽きる。しかしこれを正面から受け止め、「総合力」で乗り越えることが経営であろう

「資金繰り」については、創業当初は月末になると、夫婦で個人の通帳からかき集めるのが日常風景で、「社長業は精神的・肉体的に割の合わない商売だなあ」と、つい愚痴が出ていた

「土俵の真ん中で相撲を取る」(稲盛氏の言葉)。資金繰りを安定させて初めて会社の独自の個性を活かせ、堂々とした経営ができる・・・今でもそれが盤石でないのは私の責任である。

悩む暇があれば、もっともっと現場に出て、お客様の声、社員の声を真摯に聞き、解決のため率先垂範して行動することだ。

「人の問題」も、創業当初から現在まで、悩み続けてきた。

「やっとこれで」とホッとすればまた崩れる、を繰り返して今がある。そして現在、真に良い人達に恵まれた

まず社員・パートさんたちに感謝しなければならない。これを継続させるためにも、まず社員のベクトルを一つにして、その上で私が率先垂範して業績を上げ、社員パートさんを「物心共に豊かに」しなければならない。・・・

「人と金」に一段落つけて事業を承継することが私の務めだ!70歳の今、まだまだ老けてはいられない!


2019年7月3日 博多駅前/博多山笠/
鹿児島は大雨のため1泊

雄ちゃんの今昔物語 VOL,59

私は熊本市立本荘小学校1~3年、壷川小学校3~6年と、常にクラスでもトップ、通知表は4がわずかでほぼ5だった。いつも学級委員で目立ちたがり屋だった。

世話好き(お節介焼き?)の一面もあり、(小3で転校生の寂しさを味わった私は)特に転校生にはとことん親しく付き合ったし、(心身が)虚弱な子にもよく世話していたと思う。

中学は父から受験中心の私立中高一貫校を勧められた。

それまで伸び伸びと楽しく男女共学に親しんでいた私にとって、男子校で「受験中心」のカリキュラムが嫌で、結局父との妥協で、有名市立中学に寄留(校区を変える)すると言う形を取った。

父なりに、私に有名高校・大学に進ませ、一流企業や医者・弁護士等を目指させたかったのではないかと思う。

中学に「寄留」と言う特殊な入学で、小学との繋がりがなく慣れるまで精神的に辛かったが、楽しく過ごせたのではないかと思う。

ただ校区が違う分、何につけ無理してたなと思う。成績はクラスで上位だったが、小学時に思っていた「天才」ではないと、「井の中の蛙」の自分を感じたものだ。

熊本県一の進学校「K高校」に入学した。ところが入学直後の試験で600余人中32番(クラスでは2番)と言う好成績(その時のクラスで1番と3番は東大に合格した)をとったため、級友の目が一斉に私に注がれ(たような気がした?)、さらに両親が私以上に私に期待してしまった。

その直後、校内マラソン大会(10km走)でも学年2位(全校9位)だったため「文武両道に優れ、洋楽好きの(ユーモアのある)明るい生徒」と言う凄いレッテルを貼られたため、自分自身がその「虚像」にどう答えたら良いのか分からずに、虚像に合わせて背伸びしてしまった

家に帰れば、父からは「叔父さんは登下校時も勉強してた」「教科書を隅から隅まで丸暗記して覚えた」と檄を飛ばされ、「これまでの勉強方法ではトップクラスを望めない」と思った私は、素直にそれに従い「楽しく理解する」勉強を180度切り替え、「教科書参考書を100%丸暗記する」勉強を選んだが、これが「人生初の先の見えないトンネル」に入った瞬間だった。

身につかない勉強は学期末テストの結果にすぐに表れ、全校試験では300番台に落ちた。ショックで「最初から完璧にやらなくちゃ」と“トラウマ”になり、夏休み猛特訓をやったが、成績はさらに落ちて400番台。

併せて3枚看板の一つ、長距離走もフォームの改善を迫られ、以来記録はどんどん落ちるばかり。冬休み前には学業も長距離走も普通以下に落ちてしまった。

これではさすがに残りの看板「洋楽好きのパフォーマンス男子」も気勢は上がらず、「先の見えない袋小路」に入り込んでしまった。

高1最後の試験では学年560番(入学直後は前から32番、それが1年後は後ろから32番・・・今では冗談で言えるが)当時は大変深刻で、何をどうしていいのか全く手がつかなかった。

級友からの冷たい視線(と思っていただけかもしれないが)、それでも「学校を休む勇気さえない駄目な学生」と自分で負のレッテルを貼って、殻に閉じこもっていた。

しかし高校2年になった時のクラス替えが良かったのだろう。成績を気にしない級友に恵まれた。特に秋の運動会の応援団長や、修学旅行のバスでのマイクパフォーマンスで、久々に主役が続き、我を取り戻しすことが出来た。(修学旅行帰りの夜行列車では、あまりの楽しさに現実に戻るのが怖くて、このまま脱線事故で死んでも本望だと思った)・・・

しかしこれで吹っ切れたのか、「よし、今日から自分流で頑張ろう!今からは誰にも負けない!」と開き直れて、入学以来1年半もかかりやっとトンネルの先に光が見えた。

それから一歩一歩、学業も長距離記録も上がり(元来の性格である)みんなで楽しくやる学園生活を取り戻すことが出来、その後は高校生活を楽しむことが出来た。

高校時代のこの教訓から、 ①勉強でも仕事でも「自分に合ったやり方」があると言うこと。

基本は、勉強にも仕事にも王道なし。失敗は自分のやり方を見つける最高のチャンス、 ②ダメな時はいつも過去を振り返っている自分が居る。

「気づいた時、これからは誰にも負けない」と過去と決別することを学んだ。・・・半世紀前の教訓が、就職してからもずっと私の道標となり、経営者となった今でも生きている。・・・人生初の挫折から得た大きな教訓だ。


昭和42年3月 熊高2年10室 有志送別会
百花園 後列左から4番目が私