元気通信 #126「JOBT」仮説

暑中お見舞い 申し上げます!今年は梅雨が長く続きましたが、その後は一転熱い夏を迎えました。これからが本番です。熱中症にも気を付けて、ご自愛ください。

さて今期は、弊社の「喜び共有2年」行動指針に基づき、ある仮設を立てて、行動している。

「個人の成長」×「組織の成長」=「強靭な会社」+「社員の幸福」と言う‟方程式”です!

「個人の成長」とは行動指針の2「成長しよう!」で、仕事を通じて社員のスキル・マインド共に成長し、お客様に喜ばれ、社員間で支え合うような「人間性向上」である。

その前に「社長の成長」が必要です。社長には「克己利他」と「謙虚にして驕らず、誰にも負けない努力」を率先垂範して仕事に取り組む姿勢があっての「個人の成長」です。

「組織の成長」とは行動指針3「共有しよう!」で、「理念・朝礼・報連相・日報」を通じて情報(J)、思い・価値観(O)を共有し、方針・ベクトル(B)を合わせ、チーム一丸(T)となって行動する「チームワーク」である。刻一刻変化する内外環境に柔軟に対応できる組織を作ることです。

この「組織の成長」のプロセス(情報共有→思い(価値観)共有→ベクトル合わせ→チーム一丸)の頭文字をとって「JOBTの仮説」と命名します。これをやり続けこの方程式が解ければ仮説から「法則」となる。今期はこれが証明できるまで、このプロセスを全員で反復します。

昨年までは、こういった行動指針を打ち出す前に、同じステージに立た(て)ない人をどうするか、1年以上試行錯誤してきた。幸いにも今期はやっと思い(価値観)が揃ってきた。今は素直な社員パートさんたちを見るにつけ、伸びしろの大きさを感じる。今期中に「個人の成長」×「組織の成長」=「強靭な会社」+「社員の幸福」、の方程式を解いてみせます。

その大きな鍵は、弊社ではもちろん「トップ(社長)の率先垂範」。この3年、社長自ら現場に出る(営業に出る)形で、特にヘルスレント(HR)に軸足を置き、営業をして来た。その間、レントオール(RA)もHRも、人の入れ替わりがあり、その都度なにくそと踏ん張ってきた。今期はやっとその苦労が報われ、RAもHRも素直な良い人材が揃ってきたことを素直に喜びたい。

これを機に私の軸足を一歩「中」に入れ「営業:マネジメント=50:50」で動きます。マネジメントの中身は「個人の成長」×「組織の成長」であり、素直な良い人材だけに、会社の社風として、「利他」の心を理解してもらいます。(個人の成長)

人材が揃った今期は、それに並行して「組織の成長」に取り組みます。過去これに取組んでも、挫折の連続だった。過去の反省に鑑み、私の独り相撲にならないように肝に銘じ、これが「社員の幸福」につながることを社員たちが実感し、肌で感じれるような成果を上げたい。

一方「強靭な会社」にした先には「新しいビジョン」の構築と「事業の承継」が控える。それが実現するまで、引退は出来ない。高齢者の挑戦はさらに続くのだ!


2019月6月23日 早朝
「鶴丸城ご楼門(建設中)」と満開の「蓮の花」

雄ちゃんの今昔物語 VOL,60

一昨年末のクリスマス会以来、介護施設の誕生会に月1回以上のペースで「ELVIS JOHN 小林」ショーを開催している。趣味が高じて、こういう形で皆様のお役に立てることが出来てありがたい、と感謝です。その中でスタッフの皆様から「いつから歌っているのですか?」とよく聞かれます。そこで、今回は私と音楽活動の歴史を紐解いてみたいと思います。

物心ついた昭和20年代後半、熊本市でも「男尊女卑」が色濃く残っている下町・本荘で育ったため、歌は女々しいもので、歌とか楽器は女がするもの、と嫌っていた。昭和33年、小学3年夏休みに、清閑な住宅地・壷川に引越し、翌年我が家もテレビが登場し、海外ドラマや歌番組を見て「こんな夢みたいな素敵な世界があるのか!」、欧米と日本の生活文化の違いに驚き、「いつか私もあんなカッコいい歌を人前で歌ってみたい」・・・気づけば一人、テレビの前で歌っていました。

そのころは歌謡曲演歌とポピュラーソング(洋楽)があったが、私は断然後者で、姉から英語の歌詞ををカタカナで書いてもらい、また和製ポップスとして日本語の歌詞で日本人が歌っていたので、それを覚えては小学校・文化祭等で歌っていた。

中学3年になって、私の周りに2つの革命が起きた。1つは姉が中古のステレオ(今はオーディオ)を買って来たのです。しかし我が家にはレコード盤が1枚も無く、私はなけなしの小遣いから、初めて330円のドーナツ盤レコード「ナット・キング・コール“ルート66”」を買い、朝から晩まで毎日、両面を擦り切れるぐらい聞いた。当時TVではアメリカの「ルート66」「サーフサイド6」「サンセット77」にかぶりつき、すっかり外国かぶれになり、次第に「人前で洋楽を唄いたい!」と思いようになった。

もう一つの革命は、中学3年でビートルズの出現とリバプールサウンズ、アメリカでもビーチボーイズやアメリカンポップス、他にシャンソン・カンツォーネまで全世界、私の周りにはポップスが満ち溢れていた。「灰色の受験生活が終わったら、絶対唄い、踊り、ステージの主役になって、かっこいい女の子と付き合うぞ!」燃えるようなエネルギーは尽きなかった。

しかし1浪してやっと通った熊本大学は「大学紛争」真っ只中!構内はバリケードで騒然、私は学内サークルに入ることなく、繁華街のクラブ(上品な大人の社交場)のウエイターとしてJAZZバンドと接触、念願のボーカルとして、人前で唄うことが出来た。その頃「ジョン・レノン」を真似していたら、バンドの連中から「ジョン」と呼ばれるようになった。これが「ジョン・小林」誕生秘話です。

ところが、そのバンドマスターが、昔長崎で活動したころのバンド仲間「内山田洋」が「クールファイブ」を結成・上京して、「長崎は今日も雨だった」で大ヒットしたことに触発され、あろうことか「歌謡コーラスグループ」を目指し、博多・鹿児島と巡業しチャンスを狙った。私も鹿児島で旧「城山観光ホテル」の最上階、夜景が素敵なレストランで歌った「ラブバラード」は50年後の今も心に残る。

その後私は「大学卒業後は就職する」意思は堅く、音楽活動は大学時代だけで、就職活動に専念した。このバンドは結局レコードデビューは果たしたがヒットすることもなく解散。その一人は熊本でライブハウスを開き、時々ショーのゲスト(下記写真)として旧交を温めている。

ここで特筆すべきことが1つ。ステージの空き時間に行く「喫茶店」。熊本市街・白川河畔のビルに、夜景が映える素敵な喫茶店が出来た。そこの店員は可愛い娘ばかりで、そこに入ったばかりの娘が「ジョンのことを好きだってよ」とバンド仲間から言われ、その気になって声をかけたのが、愛妻との初めての出会いだった。2人は当時23歳と20歳、あれから47年、あっと言う間の人生!

社会人になってからは、人前で歌うことはないと思っていたが、カラオケの普及で「洋楽専門」の珍しさも手伝ってか、「芸は身を助く」と言うが、よくパーティーの余興で呼ばれることが多い。

2013年10月、「サンエールかごしま」でのセミプロのコンサートにゲスト出演。その時のリハーサルで、持ち時間で「いかに盛り上げるか」の型が出来た。以来それを基本に、場所に合ったショーを演出して、今もご利用者様に喜んでいただいている。


2010・12クリスマスLIVEで熟女と
“La Bamba”in 熊本