元気通信#132 「胆力」を身に付ける

 前号で「大善は非情に似たり、小善は大悪に似たり」と言ったが、それでは人間は何故「小善」に留まっていることが多いのだろうか」・・・それは「良い人に見られたい」「人と争いたくない」「言い返された時の反論に窮する」等々が強いのではないか、と推察される。

 私は上記の「大善・小善」を知って以来、私は「小善者」を自覚したが、「大善者」になるのは難しい。周りを見回しても「小善者」が圧倒的に多いようだ。人と上手く付き合おうとすれば、ある時は「小善」は必要なのかもしれないが、ことリーダーや指導者、親や上司、特に会社を経営する経営者にとっては「大善」であるべきだと思うが、頭では分かるが体得できない。

 京セラ創業者・稲盛和夫氏は、人格を変えるには2つしかない、と言われる。1つは「大病や事故で死を意識したとか、会社存亡の危機とか、凄まじい災難に合うこと」で心から反省した時。もう一つは、繰り返し繰り返し反省すること、毎日の反省で潜在意識に到達すること。

 これを別な観点では「知識から見識、見識から胆識」まで高める、と言うのではないか。つまり、ただ知っている(知識)からそれを信念にまで高め(見識)、見識を胆力(正しいことを貫く、原理原則を重んずる勇気)を使って実行して見せる「胆識」を身に付ける、それが経営者の人格を高めると言うのではないか、と思う。

 そして私が経営者として最も足らないのが「胆力」、つまり「どんな困難にあっても、誰にも負けない努力で乗り越えて行く勇気、何としても成し遂げようとする強い気持ち、が足らない・・・今まさに仕事の厳しさを通して「神の啓示」を与えてくれているのではないか、そう思えてならない。

 「売上を最大に、経費を最小に」・・・これまでは「売上増」に専念してきた、と言えば聞こえは良いが、経費は先送りにしてきたが、これがこの1年で原価を始め、経費増大になって、厳しくなった要因だ。昨秋から「売上を最大に、経費を最小に」を掲げ、イベント毎に「利益の捻出」に取り組む。

 大きな経費としては、(人件費を除けば)ベスト3は、人材派遣費・運送費(車両費含)・仕入である。これらを削減するために今は厳しくチェックを入れている。そしてこれまでいかにずさんであったか、反省しきりである。これらを削減するために、新たな仕組みを作る強い意志と覚悟を持ち、従業員には問題点を明確に提示し、取引先の見直しを含め、まず従業員の自覚を高め、次に取引先に価格交渉を、最後はお客様にも適正な価格をお願いする覚悟を持たねばならない。

 並行して売上増も大事である。レントオール(RA)もヘルスレント(HR)も、「売上件数」UPが第1、RAは小口イベント客のUP、HRはレンタル販売と並び住宅改修UP、そのために質量共に充実した営業活動を地道に実践して行かねばならない!・・・私の胆力を身につける絶好のチャンスだ。


2020年(令和2年)1月31日
桜島と帆船 In ドルフィンポート

雄ちゃんの今昔物語 VOL,66

昭和30年頃の「お正月」(2012年2月リメイク版)

 もの心ついた昭和29~30年、5~6歳だっただろうか? 最も楽しく特別な日で、日本中がその「正月」だけは日常とガラッと変わる日である、と気づいたのは・・・。

 まず年末になると、ご近所同士で一斉に家の大掃除をやったもんです。床から畳を上げ外に干し、障子紙の張り替え、昔ながらの土間や便所から、押入れ、各部屋の清掃から、古本等の整理、ゴミだし。新聞紙は切って(ティッシュ代りに)お尻ふきに使っていたから、古本と共にゴミに出すことは無かった。
 いつ父のボーナスが出ていたのかは知る由もないが「もういくつ寝るとお正月」と言うくらいになると、繁華街「下通り」の熊本一の百貨店「大洋」に行き、ズボン・靴・ジャンバーから下着まで買ってもらい、お正月になるまでは部屋の一角に飾っていたものです。

 父は徹底した「無神論者」だったので一緒に墓参りに行くことはなく、母が私を連れて花岡山の小林家の墓と、龍田山麓の母の実家伊藤家の墓に行っていました。
 元旦になるとどの店も休みでしたので、各家庭が最低正月3が日分の料理を大みそかまでに作るので、母は一人でてんやわんやでした。姉は手伝っていたのでしょうが、私は男だったので、台所の様子はほとんど覚えてません。
 父は、日用品雑貨の卸問屋「T商店」の経理・総務をやっていたので、大晦日は集金を終えてから業務終了、帰宅は除夜の鐘が鳴っての「午前様」だったようです。

 こうして年内に済ませるものは済ませ、いよいよ待ち遠しかった「お正月」がやってきました。朝目が覚めると、下町・本荘町の路地裏の住まいでも、世の中は「お正月」。いつもの日曜日なら朝から子供たちのうるさいぐらいの遊び声が聞こえてくるのですが、今日からは「お正月」、静かで上品な朝のスタートです。。

 いよいよ元旦になると初めて袖を通し、靴をはいたまま外に跳び出し、外出していました。昨日までのフセ(今は死語?)のあたったズボンや靴下や、穴のあいた靴をはいた「ハナタレ小僧」が、一夜にして「良家の坊っちゃん」に変身する瞬間でした。

 父は正月でも「普通のご飯でいい」と言う人なのですが、元旦の朝だけは全員で唯一の「お雑煮」を食べました。父以外は「神様・仏様」にお参りして、母の音頭で小さい声で「明けましておめでとうございます」。父は「正月だけんて、何が目出たかもんか!」と頑固でした。正月だけは飲むのが許された「お屠蘇」は甘くて美味しかった。

 遅い雑煮を食べ終わると、新調した洋服・靴を履いて、父と共に会社に「年始の挨拶」です。「T商店」は「萬町」にある戦前から続く老舗卸問屋の「会社兼社長宅」で、店先の事務所を抜け、中庭のある廊下を抜けると、奥に社長のお父さん(先代社長)の部屋があり、社員たちが大勢子供を連れ「年始の挨拶」です。子供たちの目当てはもちろん「お年玉」。神妙な顔で挨拶をしてお年玉をいただくと、その後は子供たちは2階の大部屋に連れて行かれ、子供同士で雑煮とかおせち料理やおかしを食べたり、本を読んだり、一緒に遊んでいました。その間、社員たちは1階の離れで、酒が入って賑やかな大宴会となっていた。

 夕方になってお開きになると、春竹町の叔母(父の妹)宅へ。早速叔母さんが私に「お年玉」を上げようとするのだが、父は「よか。うちもやらんから」と押し問答。「オイオイ、僕はどうなるんだ!」結局「僕のお年玉」は水泡と化した。頑固な父のせいで、私ばかりか、従兄弟のFちゃん、Hちゃん「幻のお年玉」となってごめん。

 こうして元旦はあっという間に終わった。2日からは父は出社、昔の会社務めは過酷だった。私は新調の服を着て母方の実家に行ったり、帰ってからは雑誌の付録の「福笑い」や「すごろく」「かるた」をして遊んだものです。


昭和31年元旦・会社前で
T社長ご令嬢2人と一緒に。父から引き寄せられて「苦しか!」