元気通信#134 「無事」…生きていることに感謝!
新型コロナウィルスが日本中、いや世界中を巻き込んで、猛威を振るっている。初めは「中国の問題」と「他岸の火事」と冷静だった日本人も、3月に入りアジア・欧米に広がり瞬く間に全世界に・・・驚くばかりである。弊社の前にあるドラッグストアMでも、毎朝8時過ぎから「マスクを求めて」開店を待つ長蛇の列である。鹿児島も3月最終週に初の感染者が出て、一気に緊張感が高まった。介護施設や病院では、関係者以外は玄関から入れないところも多い。こういった異常事態は、私の人生でも初めてであり、影響力の大きさからすれば、戦争や地震津波に勝る、人類史上の大惨事になるかもしれない。
弊社に限って言えば、レントオール(RA)事業でのイベントが、2月から3月初めにかけキャンセルの嵐、目を覆うばかりの悲惨な数字に、ただただ唖然とするばかりだ。一向に終息する気配がないどころか、さらに広がりを見せ、長期化する様相に、人間の非力さを痛感するばかりである。
これは私に何を教えてくれるのか、また私は何を信念として行動して行くべきなのか?
ところで弊社2階事務所に「無事」の掛け軸がかけられている。これは東京に居る長男の結婚の時(11年前)にお元気だった嫁の祖父(警視庁を退職後、書道や彫刻に専念され、素晴らしい作品の多さに驚かされた)から「ご縁の志」として頂戴したものである。
その他の書や彫刻を見てもすごく「完成度」の高い作品だが、失礼ながら、これまで10年、私はこの「無事」の意味を、初めは「消極的だなあ」と感じながら眺めていた。
しかしこの数年、経営の舵取りに取り組む中、最近は目の前に見える「無事」の二文字に、ふっと魅入ってしまう。・・・そうだ!「無事」であることが大事であり、まず私は「無事」に生きていることに感謝しなければならない!、と思えるようになってきた。
「京セラ」創業者・稲盛和夫氏の「6つの精進」の一つに「生きていることに感謝する」がある。この数年、私は毎朝仏壇に「般若心経」や「四弘誓願」「ダスキン悲願」等を読経してから出社する。最近は最後に「6つの精進」を詠んでいるが、この節を詠む時は、いつも仏壇の横に居る両親の写真に目が行ってしまう。私が元気で仕事に精励出来るのも、両親が元気に産み育ててくれたおかげだ。・・・と感謝できるようになった。
このコロナ脅威は、この便利な世の中で「人は一人で生きて行ける」と言う人間の驕りに警鐘を鳴らしているのかもしれない。逆に(SFでの宇宙人の襲来のごとく)人類史上初の「共通の敵」の登場で、人類が国境を超え、一つになって乗り越えて行くことになれば素晴らしいことだ。
しかし、欧米に見られるアジア系への差別や、米中の非難合戦には、差別や歴史の根深さを感じる。「新型コロナウィルス」の勢いは増すばかりの今、現象を危惧するだけでなく、広くは、21世紀の世界が大きく変わる前兆であり、時代の大きな節目と捉えたい。私個人では仕事を通し「利他行の実践」「真の働きとは何?」を考える良い機会と捉えたい。
弊社事務所に掛けられている
掛け軸「無事」
雄ちゃんの今昔物語 VOL,68
神が降りた!…人生初の試練から抜け出た瞬間 (2015年11月リメイク版)
前号の「神が降りた」を読まれたケアマネさんから何人か感想をいただいた。素直に嬉しく思うと共に、楽しみにしている人のためにこれからも続けて行こう、と元気になりました。
中学3年の男子のお母さんであるケアマネのKさんは、受験の子を持つ親として不安を感じておられました。受験を迎える子供たちは、勉強だけでなく、一方で「思春期」つまり子供から大人への階段を上り始め、自立の道を歩み始めている途上で、非常に不安定な状態です。彼らに必要なのは、勉強のやり方云々よりも「いざと言う時には親が付いているんだよ、いつも見守っているのだよ」と言う、子供への愛情・信頼のメッセージだと思う。
私は子供の時、実は2つの環境の変化に大きな負担を感じていた。1つは小学3年夏、引越しによる転校。もう一つは、親の希望による中学の寄留(住所を借りて校区外の学校に通う)でした。前者は2学期からだったので、多勢に無勢、慣れるまでよく喧嘩をしました。後者では、S中学校は全く違った校区だったため、ほとんど知り合いがなく、13歳の私は入学当初から精神的に負担が重なったのでしょう、熱を出して数日休みました。その後もよく熱を出して学校を休みました。
私の2人の子供たちには出来る限りこの負担をかけたくなかった。34年前、今の仕事に転職、引越す時に、同じC小学校の校区に絞り、借家を探した。おかげで2人の子たちはC小学校・T中学校と9年間通い続けて、私の経験はしなくてすんだ。次男は今でも母校の同窓会にも毎回行っているようです。子供たちには分からない当たり前のことですが、今も私の誇りです。
長男は小学校6年ぐらいから中学校はずっと塾通いしていたが、中学3年初夏、塾通いの途中に自転車事故で腕を骨折して入院、入院先から学校の中間テストを受験させた。当時、私は仕事や家庭でいろんな問題を抱えていたので、これ以上長男に負担をかけてはならないと、長男は塾を辞め、私が家庭教師をやり始めた。主要5科目、特に数学・英語・歴史はしっかり教えた。
仕事も多忙を極める中での時間の捻出には苦労したが、夕食後の時間(21時~)を当て、長男が眠りかぶってよく中断し、何度も早朝からやったことを思い出す。私は大学時代の家庭教師のバイトを思い出し、試行錯誤しつつも、高校受験当日まで継続しました。
県立C高校受験初日、帰った来た長男は、部屋に戻るや狂気のごとく荒れていたようです。妻からの電話でそのことを知り、家に帰るや部屋に入ると、部屋は本やノートや紙くずが散乱していた。私は部屋に入り何時間も長男が落ち着くまでじっと話を聞いていった。国語の試験が全くできなくて、頭が真っ白になってしまい、どうして良いのか頭が混乱し、自暴自棄になったようだ。
「もしT高校に落ちても、私立K高校の合格しているから、そこで頑張って、行きたい大学を目指せばいいじゃないか!」と、気持ちの持ち方を変えるように、時には熱く語りかけた。自暴自棄になっていた長男も、次第に落ち着きを取り戻し「ようし、K高校で頑張って、必ず有名大学に通る!」と思い直してくれた。私は最後に「今日のことは終わったことだから忘れてぐっすり寝て、明日の試験はベストを尽くせ!」と言った。・・・そして長男は無事県立C高校に合格した。
昨年お盆に東京の長男家族が帰省し、3年ぶりに子供・嫁・孫たちが揃い、全員で写真に写った。私たち夫婦を頂点とした10人、かけがえのない財産だ。孫たちは、長男の息子・小学1年、次男の娘2人は小学6年と2年、息子1歳(保育園)の4人、揃った。
長男が今年、電話で妻に「昔は俺が親父から学んだので、今度は俺が息子に教えなくては・・・」と語ったそうだ。親父冥利に尽きる、と嬉しかった。・・・私の人生には時間が足りない。さあもうひと仕事頑張るぞ!
昭和37年8月
中学1年(壺川小同窓会・屋上)左が私