元気通信#135 長期化する「コロナ禍」

 今、全世界で「新型コロナウィルス」が猛威を奮っている。私の71年の人生でもこれ以上社会全体を揺るがすものはかって見たことが無い。大自然の脅威にあらためて人間の無力さを感じるばかりだ。4月に出された「非常事態宣言」を見て、これはまさしく戦争で見られる「非常事態」とはこんなものではないかと感じる。「第2次世界大戦」終結後75年経つが、見えない共通の敵「新型コロナウィルス」と人類との「第3次世界大戦」が始まったばかり、と思えてくる。「日常生活」から「仕事のやり方」まであらゆる日常が覆される状態は「戦争に例えた方が分かりやすいかもしれない。

 さらに宣言の約1ヶ月の延期が決まった。この数ヶ月で収束するだろうと思っていた日本人は、根本から考え方を変えなければならないだろう。長期化するコロナ禍の中で、まず何としても生き残らねばならない。そして「コロナとの共生」と言うキーワードも言われ始めた。激変する時代の流れをキャッチし、激変する生活や仕事にしっかりと適合して行かねばならない。特に私たち経営者は「コロナ後の日本、鹿児島の未来を創る」と言う気概、使命感を持たねばならない。

 未だ混迷するコロナ禍の真っ只中で、全く先が見えない中、企業の生き残りは厳しい。かねてから「自立した経営」を心がけているつもりだが、この非常時に「一生に一度のお願い」と神様に祈りたい気持ちだ。ぜひ国も自治体も中小企業存続と国民生活に強力な支援をお願いしたい。

 これまで通信・交通が発展し、サプライチェーンの巨大化・複雑化する中で、時間や流通の短縮がされて来た。コロナ後は情報通信のオンライン化が進み、爆発的に拡大することは間違いないだろう。
 逆に闇に入ったのが、交通運輸業やサプライチェーンだ。それを支える運輸業、観光業、飲食業、イベント業等々だ。国内外の「交流人口の増加」を否定するかのような「コロナ禍」を予想していた人はいただろうか。私もレントオールのイベント業の激減に全く打つ手がない状態だ。観光関連やサプライチェーンは大きく変容して行くことも間違いないだろう。

 立教大・山口名誉教授は、コロナ禍が長期化を「接近禁止不況」と呼び戦後最大の不況となる、と断言する。感染リスク対策や健康志向がより日常的になり、(これまでのグローバル化の世界から)短期的には「内向き志向」になるのではと思う。これからの日本がどうなるか、皆目見当が付かないが、これまでの「自然災害」リスクに加え、「感染症」リスクも常に念頭に置かねばならない新しい時代の到来と言える。

 経営の師と仰ぐ、京セラ創業者・稲盛和夫氏は、新規事業に挑戦し続けてきたが、リスクに耐え得るだけの優れた財務内容を備えることを、挑戦の前提としてきた。コロナ後の厳しい社会情勢の変化の中、中小企業が生き残るには、どんなリスクにも耐え得る優れた財務内容を常に備えて置かねばならない。今回のコロナ禍では、それを痛感させられる。

 弊社でも、4月の「非常事態宣言」以来、「点検・訪問は慎む」ことを原則として、4月度の実績を初めてFAXで送付し、4月の新聞やチラシも郵送します。3ヶ月点検も、電話で済むところは極力電話しています。点検や訪問営業を自粛し、人との接触機会を少なくすることが、ご利用者様やケアマネさんのお役に立つことならば、と決断しました。約半世紀「現場に答あり」を信念としてきた私の営業とは真逆のスタイルですが、これも時代と共に変容する「環境適合業」こそ、経営者の仕事だから!


約40年ぶりに復活した我が家の
5月節句人形

雄ちゃんの今昔物語 VOL,69

私と伝染病(今・感染症)

 「新型コロナウィルス」が猛威を振るい、世界を席巻しているのは、皆さんもご承知の通りである。そんな中でも常に忘れてはならないのが「明るい心」だろう。また医療従事者を称え、よく見られるイベント(?)、「拍手」「演奏」「青い照明」等々に見られる「感謝の心」だろう。

 ところで、若かりしころよく言っていた「伝染病」はいつしか「感染症」と言われていることに気づき、「Wikipedia」で調べてみた。・・・過去には「伝染病予防法」という法律名にも使用されていたが、1999年の感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症法)の施行により廃止され・・・と書かれ、それ以降「感染症」の言い方が一般化されるようになったようだ。

 そこで、その昔よく言っていた「伝染病」と私の歴史を語ってみたい。題して「私と伝染病」・・・やはり私には「感染症」よりも「伝染病」がしっくりと身体に馴染む。

 昭和28年6月26日4歳の時、熊本市内は「6・26大水害」、一夜にして阿蘇からの濁流が白川を氾濫させた。幸い2階平屋の借家だったので、我が家の被害は最小限だったが、水が引いた後は、倒壊したバラックや家財が散乱し、糞尿まみれの泥水が残り、不衛生極まりない状態が続いたそうだ(私の記憶にはない)。私は、隣の鉄道高校の敷地に高く積まれた土の山を格好の遊び場に、毎日真っ黒になって遊んでいた。・・・そして「赤痢」にかかり、国立病院に隔離された。

 私の家は「白い粉」を大量に撒かれたそうで、どうやって入院したのか全く記憶にない。ただ隔離されたのは大部屋に何十人もの子供たちが居て、私も母と一緒に居た。食前に大きな注射を打たれるのが嫌いで、毎日泣き叫んでいた。・・・今でも注射針を見ることが出来ない。日が暮れるころ、部屋の外から父が仕事帰りに寄って、窓を開けずに話していたことを思い出す。
 熊本市の下町に住んでいたので、恐らく近所では戦々恐々、大変迷惑をかけたと思うし、家族も肩身の狭い思いだったのではないか、と思えるようになったのは、つい最近のことだ。

 昭和31年12月(小学1年時)入学以来初めて欠席したのが「おたふくかぜ」だった。ほっぺが腫れ、黒い貼り薬を毎日病院で剥がすのが痛かった。ある日ある看護婦さんが剥がしてくれたのが痛くなく、それからはその看護婦さんを指名して剥いでもらった。・・・今から思えば症状が良くなったからだろう。元気になっても学校に通えず、毎日給食のパンを級友が持って来てくれた。私は学校をサボっているように思われるのが嫌で、部屋に隠れていたことを思い出す。

 昭和36年(小学6年時)初夏、熊本市で「小児マヒ」が大流行した。命に係わる病であり、後遺症で身体に障がいが残ることも非常に怖かった。そのピークは夏休みに入り、仲良しの同級生・T君の弟が同病で入院したと聞いた時だった。徒歩で200mぐらいに家があり、よく行き来していてT君の弟も知っていたので驚愕して家から一歩も出ることが出来ずに、町内対抗ソフトボール大会も休んでしまったことを思い出す。当時のソ連(現ロシア)の水爆実験(死の灰)以上に怖かった。

 小学時代には毎年「ツベルクリン反応」検査が実施された。結核予防のための抗体を作るため検査が陰性だったら、BCGを注射するものだった。注射が苦手な私はかろうじて擬陽性で難を逃れていたが、小学5年時にBCGのお世話になった。予想通り痛かった!

 壺川では、家の前が墓地だったので、蚊が多く、寝る時の必需品が蚊帳だった。日本脳炎には幸い縁が無かったが、食事・勉学・TV音楽鑑賞時、常に夏は蚊とは縁が切れずに、蚊取り線香や軟膏等は常備品だった。 


昭和31年 小学1年(本荘町中通・1隣保)真中が私