元気通信#138 「経営理念」を一新!
「コロナ禍」第2波、と言ってもいいだろう。7月に入り東京の新規感染者は今は500人に迫り、全国でも後を追って1,500人を上回り、猛威を振るっている。鹿児島でも著名な夜の店にクラスターが発生して以来、2つの介護施設や与論島のクラスター、と猛威を振るう。今は周りの人が陽性かも、と言う風に思わないといけない。私の人生70年余、これまでに経験したことのない「戦後最大の大事件」になった、と言っても過言ではない。自己防衛をさらに徹底し、ご自愛ください。
そんな中、弊社は「ダスキンレントオール」事業に6月末で終止符を打ち、7月からは福祉用具レンタル販売の「ダスキンヘルスレント」事業に経営資源を集中して早や1ヶ月、まだまだ残務整理は残っているものの、活動については「営業最優先」で、一歩一歩着実に動き始めた。「経営資源を集中するとこんなに活動が出来るものか!」とあらためて、感じている。これを継続して、真にご利用者様やケアマネさんのご期待にシッカリと応えて行きたい。
営業活動と並行して、7月には15年ぶりに「経営理念」を一新した。この数年の大いなる反省(私の人間性、会社の目指す方向、組織の未熟さ)を鑑み、根底から変えたつもりだ。またこの機会に幹部とも話し合う機会が持てたのも良かった。
ポイントは3つ。・・・1つは「身の丈に合った経営」。
これまでは「飛躍する会社」を夢見て、拡大が第1で、足許の地固めを怠ってきた。一歩一歩前進して積み上げることの大切さ、壮大なビジョン等はその上に築くものである。
・・・「コツコツ、かつ(勝つ)こつ」。
これを機に「一歩一歩積み上げる・身の丈経営」を片時も忘れない!
2つ目は「豊郷幸人」の中身を「従業員の幸福」と「鹿児島への貢献」と明確にしたこと。会社の目的は「従業員の幸福」の実現が第1であること。併せて「介護福祉」事業を通して「鹿児島で存在感のある企業」「強靭な会社」を目指し、鹿児島の発展に貢献すること。そのためにはミッション・ビジョンづくりが重要になってくる。これは来期に向けた宿題として話し合って行きたい。
3つ目は行動指針の明確化。時代が変わっても変わらない(不易)人間性の大切さと、時代と共に変化する(流行)社会の変化に負けない強靭な組織力と言う「不易流行」を要とした。
①損得でなく善悪による行動
②明朗・謙虚・利他心の大切さと、相互尊重する風土づくり
③「JOB・T」による組織力をつけ、強靭な会社をつくりたい。
……特に大事にしたいのは「感謝と反省」「誰にも負けない努力」そして従業員に「エネルギーを転移するパワー」。私の挑戦するテーマである!
「桜島に帽子雲」
2020年(令和2年)7月
雄ちゃんの今昔物語 VOL,72
続・私の「3丁目の夕日」・・・「ラッパのおっさん」
「昭和30年代」みんな貧しくて、貧しさが気にならなかった時代。家にはラジオしかなく、ちゃぶ台を広げて食事し、食べ終わったらちゃぶ台をたたんで、布団を敷いて寝ていた。夏は蚊よけのため蚊帳は必需品。風呂には2~3日に一回銭湯に通った。幼児の私は男湯と女湯を行き来していたので、父母の伝令役だった。「母ちゃん!姉ちゃん!父ちゃんたちが出るてよ。早よせんね!」女の人は髪や身体を丁寧に洗ったりして、何かと時間がかかるのを既に4~5歳のころ知っていた。
夏は毎日汗をかくので「たらい」に水を入れて土間で行水。熊本の夏は昔から「うったまがるごつ(驚くぐらい)」暑かった! そして冬は家に居ても縮あがるごつ寒かった。
そのころの「熊本市」は人口30万人余、「本荘町」は市内一の繁華街「下通り」や「新市街」から歩いて10分、市の中心を流れる白川の反対側にある下町。当時の白川の河畔はバラック小屋が軒を並べていた。昭和28年6月26日の熊本水害で流され、再建された代継橋(当時は電車は不通)を渡ってすぐの道が「本荘町中通り」で、角のN魚屋を右折すればいろんな商店が並んでいて、ちょっとした買い物ができる商店街だった。まさしく映画「ALWAYS・3丁目の夕日」そのものだった。
その中通りの角の駄菓子屋を左折した狭い路地裏に我が家があった。毎日夕方まで(日曜ともなれば朝から)子供たちがパンパン(メンコ)・ラムネ(ビー玉)に興じていたが、その中で一番の人気が「紙芝居」だった。拍子木がなれば子供たちが5円持ってきて、井戸がある広場で飴を買い舐めながら、自転車周りに人だかり。自転車上がステージとなり、紙芝居屋さんの語りで始まる。遠くから「ただ」で見ようとする子がいたら容赦ない怖い声が・・・。「ただ見はいかんよ、家から5円もらって来んね!」(お金が無くて)見れなかった子には、後で興奮しながら芝居のストーリーを教えていた。TVが無かったこの時代、「紙芝居」は「映画」に次ぐエンターテイメントだった。
その紙芝居屋での一番人気が「ラッパのおっさん」だった。拍子木の代わりに「ラッパ」を鳴らし、子供たちが人だかりになり、他の紙芝居屋さんを圧倒していた。まさに私が初めて出会った“エンターティナー”だった。ある日、駄菓子屋さんで休憩していたスター‶ラッパのおっさん”に遭遇し、尊敬の念を込めて、話しかけた。ラッパのおっさんは「飛行機を持っていて、アメリカにも行ったこつがあるよ!」と言うんです。私はすっかり信じて「すごか~!やっぱ人気者はお金持ちやな~。僕も大人になったら、あぎゃん(あんなに)なりたか!」私が初めて“エンターティナー”の存在に興味を持った瞬間だった。
10年前までは熊本の実家に泊まると、ジョギング(4年前の熊本地震で半壊した壺川の実家を更地にしてからは熊本は遠くなってしまった)で時々本荘に走っていた。中通りはすっかり様変わりし、マンションと駐車場ばかり、残っている家も、木戸やシャッターで商店などまったく無くなり、あの「うじゃうじゃいた」子供たちの姿も全く見られない。井戸はふたがしてあるが雑草の中で健在だった。「広場はこんなに狭かったのか!」と、驚くばかり。旧我が家はリフォームして今は残っていたが、いつまであるのものか。・・・「昭和30年代」は私の心の中で、時々懐かしく思い出すものかも知れない。
昭和32年
若かりし父と、小2の私