元気通信#137 「損得」ではなく「善悪」で判断する!

 「コロナ禍」が自粛緩和されて早や1ヶ月余、7月に入り東京の感染者は連日100人を超え「第2波か?」と言われる。さらに鹿児島でも著名な夜の店にクラスターが発生して、110数人感染して、一気に緊張感が漂う。営業で行く先々でこの話題で大変だ。これまでに問題にならないほど感染が拡大し、天文館に限らず、市ばかりか県全体に大きな影響を与え始めた。

 そんな中、弊社も創業して約20年、最大の決断をした。約35年人生を共にしてきた「ダスキンレントオール(以下RA)事業」を6月末で譲渡し、7月からは福祉用具レンタル販売の「ダスキンヘルスレント(以下HR)事業」1本の道を歩むことになった。まず、譲渡を快く受けてくれたF社、間に入って調整してくれたRA事業部、ご尽力いただいた関係者様各位に厚く御礼を申し上げたい。今後はHRを通して、私の人生を賭して、鹿児島に貢献できる強靭な会社を作って少しでも恩返ししたい。

 7月からは、HRの営業に専念し、毎月の居宅(介護支援事業所)・包括(地域包括支援センター)・病院の医療連携室(医連)を月200件以上訪問を課して、「生涯一営業」として、「誰にも負けない努力」を信条としたい。これは、これまで全力投球を怠ってきたことに対する償いと、果たして自分がどこまで出来るか、と言う自分への挑戦だ、と心得る。さらにこれが「社内外のステークホルダー」を幸せにできる唯一の道であり、命を賭ける価値があると確信する。

 今回、原点に還って、経営いや人生を見直す良い機会だと捉えている。20年前は「経営者としてどこまで実力を発揮できるか?」を試してみたい、が本音だった。10年間は良い感じだったが、今思うにそこから先は身の丈以上に挑戦し続け、墓穴を掘ってしまった。
 そこから学んだのが「「人間として何が正しいか」を経営の羅針盤にする、と言う考えである。まだ学びの途上で稚拙ではあるが、今回の譲渡に始まり、今後の幾多の苦難を乗り越える羅針盤である。

 私が考えるフィロソフィーとは、「人間として何が正しいか」と言う問いに対する解であり、突き詰めれば「正直であれ」「人をだますな」「ウソを言うな」と言った、子供の頃から親から諭され先生から教わった道徳観・倫理観なのです。・・・以上、稲盛和夫講演「企業経営の要諦」の一節です。

 ダスキン創業者「鈴木清一」は「我、損の道を行く」と言う。誤解されやすい言葉であるが、最近私は勝手に「損得でなく、善悪で判断する」と同義語と解釈している。
 「人間として何が正しいか」の一つに、この「損得でなく、善悪で判断する」も上げられる。特に時代の変化が激しい昨今、大きい選択には間違った判断をしないように心がけたい。大事な場面に直面し善悪で判断できるか、私および弊社の真価が問われる。

 しかし言うは易く、行うは難し。「関電」の事件を見ても、「忖度する政治」を見ても、自分が当事者だったら、なおのことだろう。しかしそれを許せば次の損得が次々に現れ、恐らく消えることはないだろう。「それが人生」・・・私も最近までそう思って来た一人だった。
 私は、後5年(76歳まで)、健康を第一に「生涯一営業」として、全力投球する気概である。その後はその時の状況で判断したい。これが私の生きる道・・・悔いの無い人生を送りたい!


2020年6月21日 御楼門と蓮の花

雄ちゃんの今昔物語 VOL,71

私の「3丁目の夕日」

 記憶がかなり多くなって来たのは、やはり4歳で熊本市本荘町中通りに引っ越してからです。熊本市の中心部から白川をはさんで対岸が本荘町。のどかな田舎・健軍とは打って変わって、本荘は下町で家が密集し、昼間は子供たちがたくさん遊んでいて賑やかだったし、夜はよく大人の喧嘩があったりして、まるで昭和30年代の映画「3丁目の夕日」は当時の本荘そのものでした。

 話下手な母は近所の主婦たちとの付き合いで悩んでいたようですし、姉も自然いっぱいの田舎から下町に来て、のどかな田舎が懐かしかったようです。しかし私はこの下町にすぐ馴染んでしまいました。気づいたら子供の輪に入って、パンパン(メンコ)やラムネ(ビー玉)などをすぐ覚え、夢中になってたくさん集めては「僕の宝物」にしていました。近所の同年齢の子と喧嘩をしては泣かせていて、よく母が誤りに行ったそうです。「喧嘩に勝てないと権力は握れず、社会では生きていけない」と子供心に思ったようです。いわゆる世間で言う「腕白坊主」だったんですね。

 特に昭和28年6月26日の「熊本大水害」のことは子供心によく覚えています。最初は少しずつ水が増え、玄関から水が入らないよう、布とかでふさいでいました。ところがどっと水が増え、浸水し始めてから、あわてて1階の畳を2階に上げました。私は「この非日常性」に興奮して階段で、不謹慎にも「もっとあふれ、もっとあふれ」と子供心に「わくわくしていた」のを覚えています。

 結局、床上浸水となり、2階があったので我が家は全員2階に避難し無事でした。しかし水が引いた後が大変。大量の泥であふれ、隣の鉄道学校は大量の土砂でいっぱいでした。今と違い便所の糞尿や下水も混濁していますから、不衛生この上ないものでした。私は「この非日常性」が珍しく、鉄道学校で遊びまわっていたせいでしょうか、その後伝染病「赤痢」になってしまいました。・・・その後のことは、今昔物語5月号「私と伝染病」に書いた通りです。

 父は昔の「亭主関白」そのものでした。帰宅すると家族全員がピリピリしていました。私が遊びを覚えて「パンパン」を集め、数箱ぐらい隠していたのがばれた時、烈火のごとく叱られて、泣きわめく私をしり目に全部燃やされ、天井から紐で吊るされて尻を叩かれたことを覚えています。
 しかし、父が優しい時は街一番の「大洋デパート」の食堂に家族を連れて、ごちそうを食べたりしたこともあります。昭和30年代の、一番の贅沢でした。

 5歳ぐらいの時、父の会社の海水浴に家族で行きました。泳いでいるうちに浮き輪の空気が抜け、溺れかかったことがあります。幸い近くにいた兄が助けてくれましたが、その時の塩辛い海水を「ゴボゴボ」飲んで苦しかった・・・後は覚えていません。母たちは父からかなり叱られたそうです。
 父は釣りが好きで、兄を連れて父の友人親子と良く釣りに行ってましたが、私は1回も一緒に行ったことがありません。その時は理由を深く考えたことはありませんでした。

35年前、鹿児島の南薩摩の海岸に当時の仕事(日用品雑貨メーカー)の仲間で家族づれのキャンプしました。子供たちもたくさんいて、ちょっとしたすきに次男雄大が行方不明になり、全員で大騒ぎして捜しました。その時間の長いこと長いこと「溺れていたらどうしよう?」 と焦り始めたころ、ちょうどその時「いたぞー!」との声、振り向いたら陸から次男の姿が・・・。 

 それから何度も家族キャンプはしましたが、海には絶対に行きませんでした。父が私を釣りに連れて行かなかった理由はこれだったんだ! その時、親の愛をあらためて感じた私です。・・・・・・合掌


熊本市立幼稚園・運動会(昭和30年秋)
かけっこ・笑顔で1等賞