元気通信#144 誰にも負けない努力!

 緊急事態宣言の延長が決まり、まだ「コロナ禍」の収束が見えない日本。私はこの「コロナ禍」で2つのことを学んだ。短期的には「変化を受け入れ、方針を決め、早く動くこと」。長期的には「どんな異常時でも生き残るために、今は、強靭な会社を作るために心血を注ぐこと」の2つである。

 昨年は、会社の移転に至る11月末まで、約1年、外に向けた活動が徹底できず、忸怩たる思いがあった。しかしやっと今、その環境が整った。短期的に、私のやるべきことは大きく2つある。

 一つは「さらに業績を上げるために、営業活動を徹底すること」。量的には、12月に居宅介護支援事業所(以下居宅)・地域包括支援センター(以下包括)・病院地域医療連携室(医連)を200件突破し、1月には280件突破した。毎月最大「300件」を目標に、社員の営業活動を応援して行きたい。

 量が定着してきた今、質も充実して行きたい。先月から「入浴フローチャート・お試し」のチラシを配り始めた。予想を上回る反響だ。これからもケアマネさんたちと接しながら、要望や期待していることを形にして行きたい!・・・ケアマネさんたち、お気軽にお声かけください!

 最近の問題は、コロナ禍でケアマネさんたちと会う機会が少なくなっていることだ。「会えない分、それに代わるものはないものか?」・・・今取り組んでいることは、「FAXお礼状」だ。作業に時間はかかるが、「今日のお礼」を伝えることは締めくくりとして大切なことだし、会った人の顔と名前をなかなか覚えれない私にとって、一日を振り返る良い機会になる。また入所禁止の事務所には、一度電話をし、「新聞や実績」等の書類に一言コメントを添えて「郵送」している。

 もう一つは「求人活動」だ。強靭な会社を作るには、私だけの力では限界がある。組織を上げて求人・教育を一体化すること。資格を持ってなくとも、明朗・謙虚・利他の心を持った人を優先して入れたい。そして、全社を挙げて育てることだ。私の経営者人生20年、最大の反省は「求人教育」を怠ってきたことに尽きる。しかし今度は、全社を挙げて心を合わせて育てたい。私どもも共に成長し、必ず彼(彼女)を幸福にする覚悟です。良い人がいればぜひご紹介ください。

 私も今年は6度目の丑年、72歳を迎える。コロナ禍で悩む人が多い中、普通ならばもう隠居の年でしょうが「鹿児島最高齢の営業マン?」として精いっぱい働ける身体と親祖先・家族・社員に感謝です!まず「社員の物心両面の幸福」と「強靭な会社」を作り、その先に「介護福祉事業を通して、鹿児島の発展に貢献する」壮大な理念・ビジョンを掲げ、それまで身体が続く限り「誰にも負けない努力」(京セラ創業者・稲盛和夫氏の「6つの精進」の第一)を続けて行きます!


マリンポートから見た「黎明みなと大橋」
2021年2月7日

雄ちゃんの今昔物語 VOL,78

「病院今昔」・・・今見られないのは「注射」と「看護婦さん」

 昨年はコロナの脅威で「人間ドック」を見送った。今年もコロナ禍は続くが、もう1年待ってもコロナ禍は収束しないので、今年2月に2年ぶりに受けることにした。

 同様に昨年春から、コロナ禍で歯科の定期健診も延期していたのだが、12月に「差し歯」が外れたので、やむなく歯科医院にも行き、その時虫歯も発見され、また定期検診が続きそうだ。

 今の歯科は、まず麻酔を打って神経を取り、そのあと歯を削るので、ちょっと沁みるが痛みは最小限だ。60年前の昭和30年代、近くの歯医者さんは木造の2階が診療所で、庭木が見えてのどかだが、治療が始まると地獄だった。痛いのを通り超えて、椅子から飛び上がり看護婦さんから抑えられての治療だった。そして治療終了したら、精も根も使い果たしていた。

 小学生の時は、風邪に対する抵抗力がなく、冬になると数回学校を3日間から長い時は2週間ぐらい休んだ記憶がある。高熱の時は母から支えられてトイレまで行き用を足していた。その時は通院できずに、先生が看護婦さんと同行して往診に来てくれ、必ずブドウ糖の注射をしてくれ、少し元気になったことを覚えている。

 少し元気になれば、母と近くの医院に通院してブドウ糖注射を打ち、帰りに食堂で昼食を食べ、全部戻してしまったことがある。まだ身体が受け付けないのを悟ったものだ。夕方になると、毎日近所の同級生が給食のパンを届けに来てくれていた。今は見かけない風景だろう。

 昭和30年代前半、町の診療所は木造平屋か2階建てだったのが、昭和30年代後半から40年代、私が中高生になったころは、4階建ての威風堂々としたビルに生まれ変わり、街並みを一変させた。スーパーの進出と合わせて、高度経済成長のシンボルだった。しかし、まだ入り口で靴を下駄箱に入れスリッパに履き替える病院が一般的で、土足は大学病院みたいな公的病院だけだった。

 幼稚園・小学・高校の同級生のSさんのお父さんが院長のS病院も、木造平屋の診療所があっという間にエレベーター付きの大病院に変身して、院長も県議に、後に県会議長になり、夜の娯楽TVまで出ていた。まさしく高度経済成長の象徴だろう。(Sさんは嫌だったそうだが)

 中学生になると体力がつき、内科にお世話になることがなくなった。高校3年、視力が低下したので、戻すために眼科に通った。これは皮下注射で、注射の中では最高に痛かった。しかしその甲斐もなく視力は良くならず、父と一緒に初めて眼鏡屋に眼鏡を買った。その後立田山に登って、熊本市を眼下に見た時に「眼鏡を掛けるとこんなにきれいに見えるのか!」と驚いた。

 社会人になって何時のころからだろうか、風邪をひいて病院に行っても、注射をすることが無くなり、風邪薬をもらうだけになった。35年前、今のダスキンレントオールの仕事を始めたころ、当時の副店長が風邪で病院に行き「注射してほしい」と懇願したそうだがしてくれなかった、と怒っていたが、それを聞き、私も「そういえば注射しなくなったな」と改めて認識したものだ。

 さらに大きく変わったのは、「看護婦さん」が「看護師さん」と呼ばれるようになり、制服も頭にナース帽(?)にナース服(白いワンピーススカート)と言ういでたちが、病院によってカラフルな上下スラックスのユニフォームだ。最近は女性ドクターも多く、ぱっと見た目区別がつかない時がある。

 病院の種類も昔は「歯科」「眼科」「耳鼻咽喉科」は別としても「内科」「外科」「小児科」「産婦人科」ぐらいだったが、昭和40年代に「整形外科」が登場した時は最初は「顔を整形する病院」だと勘違いし、高校時代に足を痛めた時は行くのが恥ずかしかった。

 最近も昔は無かった「精神疾患系」のクリニックが数多く見られるのは気のせいだだろうか?社会のニーズがあるからか、もっと細かにいろんなニーズに応えるようにさらに細分化されてきたのか?素人の私には分からないが、生まれて70年余、病院だけでなく社会も大きく変容していることは間違いない。


小学4年旅行(後列真中右が私)熊本県八代市・球磨川