元気通信#145「考え方」「謙虚にして驕らず」
今年になって、良い感じで伸びてきた業績が、3月に入って一転、暗雲が・・・。前月の入院やお亡くなり報告が今月に重なったり、今月にに入っての入院・入所・お亡くなりが立て続いたかもしれない。しかし私はこれをそういう「外的要因」だけ見て納得してはだめだ、と思う。これは「天が何かを教えてくれている」と思い、まず自分を振り返り、反省しなければならない。
昨年1年間は、私にとっては「経営者人生で最も劇的な1年」だった。コロナ禍で始まった「イベント売上0」から次の手を打ち、譲渡・売却・移転というハードルを超え、最後に「倉庫改修の工事」も、少人数でやり遂げた。さらに昨年末融資も決まり、今年に入って「後は現場に全力投球!」と、堂々と戦える環境が揃った。・・・それではどこに問題があったのだろう?
まず、コロナ禍の中、社会全体が「緊急事態宣言」等、未曽有の事態の中で、これまで順調に行ったことがありがたく、「感謝が足らない」「もっと気を引き締めよ」「もっと苦労して実力をつけよ!」という「神の叱咤激励」だと受け止めたい。
まだこれから「従業員の物心両面の幸福」を作り「強靭な会社」づくりの第一歩を踏み出したばかりの弊社には、未だその実力を一つも身に着けていない。「真に社会に貢献する力をつけるまで、さらに精進せよ!」という「神の声」かもしれない。
「仕事・人生の方程式」=考え方×能力×熱意、は京セラ創業者・稲森和夫氏の特に有名な言葉である。私はこの方程式に出会ってから、壁にぶつかったときは「どこが間違っているから壁にぶつかるのか?」を考えるようにしている。
「良い考え方」とは、前向き、建設的、協調性、明朗、善意に満ちている、思いやりがある、優しい、まじめ、正直、謙虚、努力家、足るを知る、感謝の心、等々です。逆に「悪い考え方」とは、後ろ向き、否定的、非協調的、暗い、悪意に満ち、意地が悪い、傲慢、怠け者、利己的、強欲、不平不満、人を恨む・妬む、嫉妬心、等々です。
「謙虚にしておごらず!」これも稲森和夫氏の言葉だが、これこそ私に向けられた言葉だと思っている。「良かった時、有頂天になり、努力を怠るようになる」・・・「悪い考え方」の第一歩、慎まなければならない。「今、安易な道に向かってはならぬ。もっと大きな夢に向かうならば、さらに精進せよ!」という天の声だと受け止め、さらに垂直登攀して行きたい!
祇園の洲公園「高麗橋」
2021年2月
雄ちゃんの今昔物語 VOL,79
壺川「昭和の家」(2010年10月のリメイク版)
先日、仕事で新たなお付き合いが始まったNPO法人に訪問して、理事長に挨拶した。一旦名刺交換した後、また担当の方とお話ししていたら、途中で元気よく戻ってこられて「熊本の方なんですね!僕も熊本なんです!」、その後は「熊本弁」丸出しでしゃべられた。同郷で懐かしかったのだろう。かくも同郷とは良いもんだ、私も鹿児島に来て42年になるが、それでも同郷だと知るとつい嬉しくなってしまう!・・・ちなみに私の名刺は2つ折りで、私のプロフィールが書いてあるのです。
昭和24年、東部の田舎の健軍町の戦後・集合住宅で生まれた私ですが、4歳の時に下町・本荘町に引越し、それからの記憶が鮮明で、熊本市立幼稚園、本荘小学校3年1学期までは伸び伸びと遊びまわる児童だった。近所は人や自転車しか通れない狭い路地に、子沢山の家庭がひしめき合っている、まるで映画「3丁目の夕日」の熊本版だった。小学校も楽しく通い、習字・絵画・楽器演奏・夏は水泳、冬はかけっこと、楽しい思い出しか残っていない。
ところが昭和33年7月、長年住み慣れた「下町」本荘から、「清閑な住宅地」壷川へ引越した。そしてその「壷川」の家こそ「昭和の家」そのもの。木の門を入ると、脇と奥には木が植えられ、奥行き10数m・幅3mの庭(道?)の先に玄関があり、その脇には鋭角な緑屋根の「洋館」と棕櫚の木、広い廊下を隔て、2間の床の間付き8畳の「客間」のほか、6畳、4.5畳、食事部屋、かまどがある土間、五右衛門風呂が離れにあり、部屋から便所まで続く「長~い廊下」、その外は「広~い庭」。今まで「食事も、くつろぐのも、勉強も、寝るのも、ひとつの部屋と2階だけの2間」ぐらしの一家にとって、まさに夢の御殿・・・・まさしくBS・NHK「美の壺」に見られた「昭和の家」そのものだった。
家の広さ、環境の良さは家族全員、大喜びだった。「喧騒な下町」から一転、清閑な住宅地での生活になり、とくに母や姉は嬉しかったのではないでしょうか。私も「昭和の家」での生活は嬉しかったが、辛かったのは「同級生や先生」との別れだった。Y先生からは、引っ越しても転校せずに本荘小学校に通うよう強く勧められたそうだ。私もよその小学校に転校することは考えられず、隣のEさんのおばさんが「雄ちゃんだけ、家に居ると良かたい」と言う言葉を真に受けて、真剣に本荘に残ることを考えたものです。(数年前、本荘を通ったが、周囲は駐車場に変身、しかし家は健在だった)
「壷川(こせん)」は、引っ越したころは「寺原(てらばる)町」と言って、近くの坪井川がよく氾濫する、熊本市内でも有数の「水害」の発生地だった。引っ越した時に、客間の壁に線がついていたので、「お父さん(その頃は“父ちゃん”を卒業していた)、こん線は何ね?」父に尋ねたところ、「下が昭和32年、上が昭和28年の水害の跡たい!」と聞いて驚いた。上の線は、私の背丈以上で、家は平屋だったので、父は天井の角には三角の棚を作って、水害の時はいつでも物を置けるようしていた。また押し入れから、天井裏に上がる避難路を決め、京町台に避難するための近道となる崖道も確認して、いざという時のために備えた。今考えても「父の備えはパーフェクトだったな~」一家の長としてのすごさを感じたものです。ただ幸いにも、私が大学まで暮らした15年間では、水害は無かったが、皮肉にも父が亡くなった数年後、床上浸水が発生したのです。
昭和33年、家族5人から始まり、(父の)祖母ちゃんの終の棲家になり、犬を飼い、数々の下宿人たちと同居した日々には、朝夕の炊事洗濯や、風呂や便所、人があふれたのは、60年以上前のこと。兄弟が結婚し、父が亡くなった45年前からは母の一人暮らし。その母も鹿児島と熊本を行き来し、80歳過ぎてからは認知症が進行し、熊本に一人では帰れなくなり、次男雄大が熊本学園大を卒業した18年前からはとうとう空き家となってしまった。
その後は私が出張時に寝泊まりしたり、2ヶ月に一回私たち夫婦で庭の草取り、家の掃除、布団干しに精を出すのが続き、その後花岡山の墓参へ行ったものだ。
母の死後も風雪に耐えた実家も、2016年4月の熊本地震で半壊し、1年後に解体し、約80年の歴史を終えた。
私もいつか熊本に帰り、家を再築したいと思ったりもしたが、実現しなかった。今となっては「あの昭和の家」は元々「父母の生活の証」であり、母の没後も、よくぞ地震まで生活できる家として残れたものだ。今は更地の実家跡地の雑草を見てそう思う。
2011年3月伐採後「昭和の家」を臨む
妻もホッと一息