元気通信#154「積小為大」

 江戸末期、少年の時両親を亡くし、貧農から刻苦勉励まさに働きづくめの中に学び、家を再興しさらに、藩政改革で村を再興した「二宮尊徳」・・・昭和の頃は小学校の校庭に必ず「二宮金次郎」の銅像があって私たちは親しんでいたものだが・・・その二宮尊徳の言葉で「積小為大」がある。

「積小為大」・・・「家を興さんと思はば小より積み始むべし。この他に術は非ざるなし」尊徳の改革とはまず身近なことから変革していく。それも自らの経験を糧にして、さらに一歩進めて改善していく。・・・私の経営歴20年はまさにその逆で上ばかり見て、小さいことの積重ね、足元の一歩一歩を疎かにしていた。「大事をやろうと思えば、先ず足元の一歩一歩から取り掛かり、今日より明日、明日よりも明後日、と創意工夫を重ねること」。10年ビジョンの実現は諦めずに「積小為大」をやり続けるしかない、あらためて思う。

激動のコロナ禍の中、会社存亡の危機を乗り越え、会社として振り出しに戻れた。危機をバネに、昨年は10年ぶりに新しく「経営理念」も一新し、会社の進むべき道を明確にした。その上に「10年ビジョン」を掲げ、今期(21期)から進行中である。秋にはM社員の復帰も叶い、この20年で最も理想的な組織ができた。担当も戦略的に変更し、もっとダスキンの良さをケアマネさんたちステークホルダーに認知していただける布陣を敷いた。後は一歩一歩前進あるのみだ。

トップとしての私の使命は、経営理念の実現だ。強靭な会社を実現し、従業員の物心両面の幸福を追求すると共に、介護福祉事業を通して鹿児島の発展に貢献することだ。私一人では到底実現できない。後継者を始め幹部社員と一丸となって突き進むつもりだ。私は高齢だけに身体には限界があるが、それ以上に気力をふり絞って率先垂範して陣頭指揮に当たりたい。

トップとしては、次の一手も、その先も考え続けなければならない。次期介護保険改正の2023年、団塊の世代が後期高齢者となる2025年、脱炭素社会に変わる2030年、そして団塊の世代が世の中からいなくなる2040年・・・今でも時間は刻一刻と進んでいる。これを見据えて時代の流れをつかみ、躊躇することなく会社に取り入れ変化して行かねばならない。そのためには次世代に合った会社のあり方を追求し、それに叶った人材を育成し続けなければならない。・・・「10年ビジョン」の実現は、まず足元の一歩一歩から取り掛かり、今日より明日、明日よりも明後日、と創意工夫を重ねる「積小為大」が出来るかどうかにかかっている。


2021・11・28
甲突川左岸・銀杏と戦災復興記念碑

雄ちゃんの今昔物語 VOL,89

「末は博士か大臣か?」・・・大人になればただの人

「末は博士か大臣か」・・・昭和30年代、「子供に対する誉め言葉」としてよく聞かされた。父の勤める会社の社長の子息子女がその類で、父や社員たちが集まればよくその話を聞かされたものだ。会社の社長の子息子女は私より7~8歳上から始まり、一橋大・東京工大・早稲田大・津田塾女子大、錚々(そうそう)たる学歴だから、そう言われても仕方がない。

父はその社長と旧制中学の同級生であり、当時は上司部下の立場だったので控えていただろうが、負けん気の強い父なので「俺の息子も負けていないぞ」と内心は競争心を抱いていたのではないかと、推察する。人一倍私には教育熱心で、テレビも時間限定、マンガ雑誌は読ませてくれなかった(隠れて貸本屋で借りて片っ端から読んでいたが・・・)。

昭和35年4月、壺川小学5年進級でクラス替えがあり、仲良しだった3人組(#84を参照下さい)もバラバラとなり、担任も若い女性のF先生になった。威厳のある男の先生から一変し、個性を大事に何でもやらせてくれる女の先生の元、最初から学級委員長に選ばれ、伸び伸びとした小学高学年生活が始まった。その頃になると一般家庭でもテレビが普及し、6時台の「ヒーローもの」(月光仮面や七色仮面、怪傑ハリマオ等)から夜の「歌謡番組・バラエティ」当時民放はRKKしか無かったが、翌日はテレビの話で持ちきりだった。私はそこでも主役、いつも歌い、パフォーマンスしていた。

私はどうしても学級新聞を作りたくて編集長に立候補し選ばれた。当時発刊された少年週刊誌「少年サンデー」や「熊本日日新聞」等をモチーフに、校内のニュースや連絡版の他、芸能スポーツ情報、4コマ漫画、連載小説、クイズ出題まで、ほぼ私が構成して、ガリ版印刷していたので、ほぼ放課後はその作業にかかり切り。しかし好きだったので全く苦にならなかった。

6年生になると児童会新聞委員長が決まらず、児童会副会長に選ばれた私が新聞委員長も兼任し、学級新聞編集長も兼任し、3足の草鞋を履き、超多忙を極めた。今から思えば好きとはいえ、そのパワーはすごかったと思う。見返りを求めず、純粋に打ち込んだ力は大きい。

そんな中、成績は常にトップで、算数・社会・理科は100点、6年生後半は連続100点を取るために、前夜には何度も復習して試験に臨んだものだ。・・・10数年前の還暦同窓会の席で、同級生のM君から「小林君も読んでいるから」とお母さんを説得し少年雑誌を買って貰った話を聞いた。保護者からも認められていたのだろう。担任のF先生からも「教師歴数十年の中で、小林君は3本の指に入る」と言ってくれた。(エヘン!)・・・今、妻子に話せば「またお父さんの自慢話が始まった」といつも茶化されてしまうが、私はありのまま、良い時も悪い時もありのまま、皆様ご理解ください。

そして壺川小学校卒業時、父は並々ならぬ力の入れ方で、私立中高一貫教育を受験させようとしたが、学力中心のカリキュラムを見て嫌になった。私は自分の好きなこと(趣味やスポーツ)と共に楽しく授業を受けて来たのですごく違和感を感じ、校区内の中学校を望んだが、結局父の意見も無視できず、折衷案として、「熊本高校」進学率の高い「市立白川中学校」に寄留して入学した。

恐らく、父としては私を会社社長のご子息に負けない学歴で社会に出したかったのだろう。しかし私は伸び伸びと個性を生かし、私に合った道を歩み、度々脱線した。それでも「高校」「大学」と進学し、就職・結婚、人並み(以上に波乱万丈?)の人生を歩めて、良かったと思う。

ただ、父は私が小学5・6年のころ仕事の話をして、会社を作る夢をよく語ってくれた。そのせいか私もいつか会社を作って、経営者として思い切り腕を振るいたい、と思ってきた。この父の思いが、72歳の今でも私を奮い立たせる原動力になっているのかもしれない。両親に感謝!


壷川小学校卒業式後
男子3列目、左から2人目「笑顔が爽やかな少年」が私です