元気通信#161「人生最後の努力」
人生で夢中で取り組んだことが多々あるが、今の仕事に対する私の姿勢は、「人生最後の努力」の真っ只中、と自信を持って言える。・・・私の過去の「誰にも負けない努力」の歴史ついては、「雄ちゃんの今昔物語」の今月号をご覧ください。
今は「コロナ禍」での大ダメージが引き金になったと振り返れるが、その時は「アウト!」と頭が真っ白になった。とにかく必死で乗り越えるしかない!・・・無い無い尽くしの私には残ったものは私と家族と残った社員しか無かった。生き残りをかけた中での判断の基準は「人間として正しいことをする」「世のため人のため/利他の心」だった。そして再起することが出来た!
それから1年、予定では「意気揚々と業績も向上している」だったが、昔に比べて簡単には向上しない。しかし、弊社経営理念「・・・介護福祉事業を通して鹿児島の発展に貢献します!」の実現には、まずケアマネさんや利用者様の信頼を得るために、歯を食いしばってコツコツと地味な努力を積重ねて行くしかない。
6月半ば、旧社屋の時以来の「実地指導」があった。今回は日ごろの管理が良い上に、現場全員で総点検をし、万全を期したため、いい結果だった、と思う。現場の営業も最低限の点検・訪問も出来、営業や管理面で以前にも増し厚みが出来た。・・・さあ後は7月からの夏に向けた「熱い戦い」を展開して行きたい。「JOB・T」発揮の見せ所だ!
私の「人生最後の努力」の役割は大きく3つある。一つは未来に向けた「ダスキンヘルスレント」の陣頭指揮を執ること。社員に「何故これからの福祉用具は、ダスキンヘルスレントなのか」の思いを熱く語り、営業のベクトルを合わせ、チーム一丸となって、働きやすい環境を作り、ケアマネさんたちに喜んでいただくこと。
もう一つは、自称「鹿児島最高齢営業マン」として、最前線部隊隊長として、毎月170件以上の訪問を達成すること。幸い心身ともに健康であることに感謝して、この暑い夏・熱中症等に留意しつつも、どこの若い営業マンにも負けない情熱で活動し、ケアマネさん、ソーシャルワーカーさん、介護士さんたちにお役立ちし絆を強め、新たな縁を作り、ダスキンヘルスレントの輪を広げること。
最後の一つは、後継に後を託しつつも、その道づくりを共に歩みたい。「高齢化社会」に合ったサービス・商品の開発と営業で、強靭な中堅企業を構築し、「従業員の物心両面の幸福」を実現し、「介護福祉事業を通して、鹿児島の発展」に貢献することだ。恐らくこれからも健康が続く限り、仕事から離れることは無いような気がする。そして皆様とは1日でも長くお付合い出来ます様に・・・。
令和4年4月30日 マリーンポート花火大会
弊社2階ベランダから観覧!
雄ちゃんの今昔物語 VOL,95
「誰にも負けない努力」の歴史
小さいころは夢中になることが多くて、遊びから、漫画、本、スポーツ、探検と何でも夢中になったのは、子供たちの特権であり、皆さんほぼ全員がそうだったんでは無いでしょうか?・・・そこでここでは、苦しい中で「誰にも負けない努力」をして苦境を乗り切った私の栄光の歴史をひも解いてみましょう!(エヘン)
私の自覚した人生最初の苦難と努力は、「今昔物語VOL.59」の「暗黒の高校時代」の挫折とその復活です。しかしその後も苦難は続いた。初の大学入試では、国立一期・二期、滑り止めの私立大学まですべて滑った。そこは福岡のS大で、人気バンド「チューリップ」を輩出した大学だったので、もし合格していたら私も・・・と今でも思っています(相変わらず気楽な人だね)・・・しかし今回は苦難と努力の歴史がテーマです。それにとどまらず地元予備校K塾にも落ちて、ダメを押されたようで、度重なる大ショックでした。
別の予備校に通い、4月から夏までの3~4カ月は誰にも会わず、毎日10数時間勉学で机に釘付け。私の人生で後にも先にもここまで勉強したことは無かったでしょう!我ながら凄かった!と思う。K塾・熊大の連中に負けるものか!の一心だった。おかげで、現役時代には手も届かなかった国立大一期の熊大法文学部に入学した。ちなみに国立大2期は鹿児島大学・法文学部に願書出していた。今から思えば鹿児島には縁があったんですね。
時は流れ、社会人になって初めての苦難は「父の突然の死」だった。それまでは「最後は親がいる」と言う甘えがあったが、26歳の時父がガン宣告された時、社会人として「自立」しなければと、一心不乱に仕事に打ち込んだ。当時、結婚して福岡支店勤務で営業として若手有望株、29歳で鹿児島事務所所長として赴任し、鹿児島を全国一にした。ここで今の基盤となる営業力を付け、どこでも通用する自信が生まれた。
その後紆余曲折があり、36年前(36歳)に「ダスキンレントオール」に転職して店長となった。しかしバブルが弾ける頃から、ワンマンオーナーとの確執が始まり、真剣に退社を考えた。46歳ごろ、オーナーから「赤字ならば店を辞める」と宣言され「今この仕事の延長線にしか私の人生はない」と肚をくくった。それからはほとんど休まず、土日も設営撤去の日々が続き、利益を出し店を存続した。当時冬はスキーバスが頻繁に出て、宮崎県「五ケ瀬スキー場」近くに家を借り、鹿児島と五ケ瀬の往来の日々。毎年スキー用品レンタル作業に励み、まさに雪と寒さとの格闘!「やれば何でも出来る」と確信した。
それから数年後、オーナーがガンで亡くなられ、私が店の権利を買うことになり、新米のオーナーとなった。その時51歳「先が見えなくとも一生懸命に頑張れば、道は拓かれるもの」と確信した。
あれから20年、強靭な会社づくりを怠ってきた私は、コロナ禍の嵐に巻き込まれ、「元気通信」今月号で語る「人生最後の努力」に命を賭ける。
お気づきの通り、私の「誰にも負けない努力」の引き金になっているのは、いつもその前に大苦難があり、それを乗り越えるために肚をくくった時だ。「危機が迫ってからしか努力しない、普段からきちんとやっておけばいいのに・・・」私の大きな欠点である、と猛省するばかりだ。
「人生最後の努力」の本質は、これまでの土俵際の「うっちゃり」の人生から脱却し、「土俵の真ん中で相撲を取る」(京セラ創業者・稲盛和夫氏談)こと。つまり、日頃から厳しい環境に備えて強靭な会社を作り、堂々と得意技で勝負する経営である。この「人生最後の大勝負」に勝ち、真に「鹿児島に貢献出来る会社」に成長すること、を後継者・社員たちと夢を共有して行きたい!