元気通信#162「焦らず、驕らず、諦めず!」 

 暑中お見舞い申し上げます! レントオール事業を辞め、ヘルスレント事業だけ単独事業に移行して丸2年過ぎる。コロナ禍とは言え、撤退・移転の難作業に約1年費やした。それと併せて再度、弊社の「事業の目的・意義を明確にする」ために「10年ビジョン」を作成した。

 新生YTSフレックスの「10年ビジョン」は一言で言えば「社会に貢献できる強靭な会社に生まれ変わる」ことだ。第1弾は2025年までに「従業員の生活の保障」と「安定した経営基盤」を確立する。さらに第2弾は2030年までに「社会に貢献できる会社」・・・もっと具体的に言えば「鹿児島の介護福祉業界の健全な発展に貢献する」ことだ。これが私の「ラストドリーム」!

 そこで忘れてはならないことは「経営者の器以上に会社は大きくならない」と言うこと。創業して20年、ここを疎かにしてきた結果が今の姿だろう。私は小手先のスキル・ノウハウ等々に答えを求め五里霧中に入ったが、幸いにも霧の中から抜け出せた。京セラ創業者「稲盛和夫」氏は「経営者の心を磨き、純化すること」「心を高める、経営を伸ばす」と言われる。そして「世のため人のためになる」こと、「利他の心」で精進すること云々、と何度も何度も言われる。「10年ビジョン」を実行する中で、「私の心を磨き、高める」ことが「10年ビジョン」の内なるもう一つの目標だ。

 そして1年、創業来のベストのスタッフにも恵まれ、「驀進中!」と言いたいところだが、現実は厳しく、目標を大きく下回っている。これは「天(神)が私に与えてくれた試練である」と受け止める。私は調子に乗るとすぐ有頂天になり、それを境に「登り切ってもいないのに下り坂」(綾小路きみまろ風)になる人生の繰り返しだった。今回の「ラストドリーム」を何としても成功させるには、「本物」の実力を備えるまで、天(神)がブレーキをかけてくれている、と受け止める。

 そして現在、集中していることは「売上を最大に、経費を最小に」だ。①卸仕入から自店仕入に入替すること、②三大作戦(オレンジ大作戦、源流大作戦、深掘り大作戦)の遂行。・・・詳しくは担当者に聞いて下さい。こんなに努力しても結果が見えないのは「水面下で確実に上がっているので、引き続き努力すれば必ず水面上に顕れる!」と信じてこれをやり続けたい。

 「焦らず」多少悪くても不安にならず、「驕らず」少し良くなっても常に謙虚に、「諦めず」どんな状況でも粘り強く、明るくやり続ける。・・・これは私の造語だが、今こそこの言葉が最も大事な時だ!この試練を「天(神)から与えられた試練」と受けとめ、この試練を乗り越えたその先には、成長した社員たちや私、それに強靭な弊社の輝ける姿が見られるはずだ!


鶴丸城・ご楼門と満開の蓮花 22年7月24日

雄ちゃんの今昔物語 VOL,96

「レントオール35年」流行の変遷

 「ダスキンレントオール」事業(以下RA)から撤退して丸2年になる。最後はコロナ禍でイベントが全く消滅し、事業として全く機能しなくなっての撤退だったので、むしろすっきりとした形で、残る「ダスキンヘルスレント」事業(以下HR)に集中できる道を歩めたことは、経営者としては幸せだったかもしれない。その時にお世話になった関係者様にあらためて感謝するとともに、私に「人生のラストチャンス」を与えてくれた「天・大いなるもの」に応えるべく「社会に貢献できる企業に成長させる」ことを、ここに誓いたい。

 1986年(昭和61年)3月、全国第73号店として、鹿児島市宇宿でスタートしたRAは、店長・副店長以外は「パート・アルバイト」中心、バイトを募集すれば大学生・フリーターが数多く集まる良い時代だった。店の最初の看板は「レンタルの百貨店」。12カテゴリーに分類され、大きなカテゴリーでも「ホーム」「トラベル」「ベビー」「キャンプスポーツ」「パーティイベント」「映写音響」と多種多様だった。ちなみに「介護」のカテゴリーも、車いす、松葉づえ、ベッド(手動式)がわずかにあった。

 年間を通して「ベビー」は安定した売上に貢献し、「トラベル」は夏のホームステイが流行り始めた頃で、特に夏場は旅行カバンが月間最大数百件レンタルがあり、1年を通して稼ぎ頭だった。また夏場の週末は「キャンプテント・バーベキュー」「氷かき機・綿菓子機・ポップコーン機」の模擬店用品、「夏まつり」イベント設営で超多忙を極めた。設営要員は大学生協で募集し、10人ぐらいすぐに集まった。当時は若者は多く、バイト先は少なかった。

 春秋の運動会シーズンは「ビデオカメラ」のお断りが毎週数十件、その他「学園祭」等の模擬店レンタルも超多忙だった。さらに「企業運動会」も盛んで、100万クラスが年間10数件開催された(バブル以降は消滅)。クリスマス・忘年会はサンタの衣装をはじめぬいぐるみやコスチューム、パーティグッズの出番だった。TV取材も頻繁だった。今はNET通販・100円ショップ・ドンキ・ホームセンターに取って変わられたのは時代の流れだろう。

 毎年1~2月はイベントが少なく悩みの種だったが、映画の影響からか、宮崎五ケ瀬スキー場開設でスキーが脚光を浴びた。特にN交通バスと提携した「スキーバス」は毎週定期便・チャーター便も多く、RAのキャパを大きく超え、大量に購入しても全く足らずに、オーナーと大喧嘩になった。考え抜いた末に「スキー場」近くの民家を12月~3月借上げ、臨時倉庫作業場に地元主婦・高校生を雇い、2年間私が毎週通ったことが今は懐かしい。寒さと豪雪と格闘、想像を絶する凄まじさだった。副店長たちも泊まったが、あまりの過酷さに会社を辞めてしまった。しかし私は絶対に利益を出さなければと、その一心で必死だった。おかげで数年間でかなり利益貢献できた。ただその後、スキーバスは潮が引いた様に減少し、数年後0になる。「流行」の流行り廃りに肝を冷やし、良い勉強となった。

 2001年独立。しかし既に90年代に価格破壊が始まり、デジタル化、NETの普及等、RAの環境もじわじわと様代わり。上記カテゴリーで残っているのは、ベビーとイベントのみ。都市部ではイベントに特化した「イベントセンター」に様変わりしている。介護保険制度が導入されHRも新規事業としてRAから分離独立して10数年、今はRAを上回る勢いだ

 21世紀になって20年余、RAでのビジネスモデルは激変。「物流コスト高」と設営時の「人件費(派遣社員)高」それに「小規模イベント」の減少と「大規模イベント」の専門化。それに合わせた大量在庫、物流、人材、ノウハウと資本力のある企業しか生き残れない時代になった。

 逆にHRは、介護保険制度が厳しくなることは必定だが「いかにご期待以上のサービスが出来るか」基本はあくまでも労働集約型サービスの積み重ね、弊社の得意とするところである。これからも粘り強く活動して、社会に貢献して行きたい!


2002年頃 鹿児島市平之町
「ダスキンレントオール鹿児島ST」ショールーム入口