元気通信#170「舞いあがるって、螺旋だよね!」 

 NHK朝ドラ「舞いあがれ!」の最終回が放送された31日、歌人の俵万智さんが主人公の梅津舞に「見たいもの ほんまに見られるその日まで 螺旋(らせん)描いて舞いあがる人」という短歌を捧げたことをNETで知り、私も我が半生、今の心境とダブらせ、「御意」と唸った。

私の人生を振り返っても、寄り道回り道がいっぱいあるけど、自分の「座標軸」さえブレなかったら、どんな向かい風に合っても絶対負けない。そうか、人生って一直線じゃない。見たいものがなかなか見られなくても、諦めずに見られるまでやり続ける。「舞いあがるって螺旋だよね!」と言う言葉は俵万智さんが主人公・舞に向けた短歌だが、勝手に私への𠮟咤激励と受け取った。 

 約20年前、当時の小泉元首相が言った有名な言葉に「上り坂、下り坂の他に“まさか”と言う坂」がある。その後も「リーマンショック」「東日本大震災」、私の故郷の「熊本地震」、そして3年前から続く「コロナ禍」、昨年の「ウクライナ侵攻」。特に仕事が完膚なまでに直撃された「コロナ禍」では最悪を覚悟した“まさか”からは運良く生還できたが、その後も“螺旋”は続く。

昨年は「よし!この路線で大丈夫!」と判断したのが甘かったのか、思わぬ苦戦を強いられた。その原因を分析して分かったのが私の「高齢化」という現実だった。私たち高齢者の体力・気力の低下、新しい変化への適応力の減衰、判断力・分析力が時代に合わなくなっている事実を痛感した。そこで今年に入り、実質主役を息子に移譲し、私は一歩引いて(名?)脇役としての活動に徹して行きたい。また組織も若手を中心に再編成した。要は社会や介護の環境変化に即応できる態勢を作り、ケアマネさんたちの信頼を深くし、その輪を拡げることだ。

それとともに、もう一度創業の原点に還って、「弊社は何のために存在し、社会にどう貢献するのか?」という「経営理念」を再度考えた。まず「従業員の物心両面の幸福を実現するため」と「鹿児島の介護福祉業界の健全な発展のため」筋肉質の会社に生まれ変わり、さらに近い将来、強靭な会社に成長発展することを、もう一度社内外に明言したい。

筋肉質の会社には、行動指針の一つ「JOB・T」の実現が必至だ。情報の共有(J)、思い(価値観)の共有(O)、ベクトル(会社の方針、方向性)を合わせる(B)、会社一丸のチームワーク(T)に向けて、業務の中でありとあらゆる機会を捉えて、言い続けなければならない。

経営者になったときの夢を、元気で生きているうちに、もう一度「見たいもの ほんまに見られるその日まで 螺旋描いて舞いあがる人」になれるよう、まず「この1年」精進し、勝負する覚悟です!


甲突川河畔の桜は三分咲 2023・4・1・早朝

雄ちゃんの今昔物語 VOL,104

手紙 ~親愛なる子供たちへ~

年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを 理解して欲しい
 
私が服の上に食べ物をこぼしても 靴紐を結び忘れても
貴方にいろんなことを教えたように見守って欲しい

貴方と話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずに うなずいて欲しい

あなたにせがまれて 繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも 私の心を平和にしてくれた

悲しい事ではないんだ 消え去って行くように
見える私の心へと 励ましのまなざしを向けて欲しい

(中略)

悲しい事ではないんだ
旅立ちの前の 準備をしている私に
祝福の祈りをささげて欲しい

コロナ禍が始まり丸3年、完全収束には至らないが、日本経済全体がコロナ後に向けて日本全体が大きく舵を切り始めた。私の「ELVIS JOHN 小林」の活動も、3年間全く出来なかったが、昨年、吉野の「デイケアゆうゆう・クリスマス会」から再開され、1月には鹿児島サンロイヤルホテルでの「ダスキン鹿児島エリア新年会」、そして5月7日(日)に開催される、介護関係者による「どりーむフェスタ」(姶良市・加音ホール)出演も決まり、本業の営業の傍ら、打合せ・練習に余念がない。

その中で主催者 I さんのブログに載る「手紙~親愛なる子供たちへ~」が話題になり、私のノリで(全く知らない)この曲を歌う羽目(笑)になった。おかげで今は車の中で、この難曲に悪戦苦闘中だ (^_^;)。しかし歌っている樋口了一さんの歌を聞けば聞くほど、20数年前、在りし日の母のことを思い出し、何度も何度も言葉に詰まってしまう。

楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのを嫌がる時には 思い出して欲しい

貴方を追い回し 何度も着替えさせたり
様々な理由をつけて嫌がる貴方とお風呂に入った懐かしい日の事を

いずれ歯も弱り 飲み込む事さえ できなくなるかも知れない
足も衰えて立上がる事すら 出来なくなったら

貴方がか弱い足で立上がろうと 私に助けを求めたように
よろめく私に どうか貴方の手を握らせて欲しい

貴方の人生の始まりに 私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに 少しだけ付き添って欲しい

貴方が生まれてくれたことで私が受けた多くの喜びと
貴方に対する変わらぬ愛を持って 笑顔で答えたい

私の子供たちへ
愛する子供たちへ

母は78歳で体調に不安を感じ、父の死後20数年、熊本での一人暮しから鹿児島で私たちと同居した。その頃から認知症初期で、私たち夫婦も認知症のことをよく知らずに、母の言動に振り回され、仕事と相まってストレスを溜め、ずいぶんきついことを言ったことを思い出す。特養に入所してからは親子関係は平穏に戻ったが、その頃を思い出すたびに、母には本当に親孝行できたのだろうか? いつも反省するばかりだ。

今、両親の介護で悪戦苦闘されている方も多いのではないだろうか?そしてまた私もその年齢に近づきつつある。いつ妻や息子たちに迷惑かけるやもしれぬ。医療介護には限界がある中、後は私たち心の持ちようではないだろうか?周囲への「お陰様で」と言う感謝の気持ちを忘れず「利他の心」周囲にお役立ちする気持ちが大切ではないだろうか?


(左・中)1950年春 熊本市健軍町 母姉と1歳前の私
(右)1999年春 81歳の母と熊本城桜