元気通信#169「両極端を併せ持つ」
「両極端を併せ持つ」・・・70代で学び始めた「故・稲盛和夫塾長・鹿児島盛経塾(旧盛和塾)」の有名な言葉である。これまでいろんな経営者団体では「従業員の気持ちを理解し、その意見を尊重する・・・」のが真の経営者だ、と学んだ。これまでは、私も優しい理解のある社長に努めてきた。
この言葉に出会い、始めは驚いた。しかし謙虚さや優しさも大事だが、経営者の最大の役割は、決断力とそれを成し遂げるために強引なまでに部下を引っ張っていく統率力と、岩をも穿つような強い意志力が必要だ、と稲盛氏は語る。つまり経営者には、強烈なリーダーシップとそれを否定するような謙虚さ・包容力の両極端を兼ね備えていなければならない。
ちょうど綾を織りなしている糸のような状態で縦糸が大胆さならば、横糸は細心さと言うように、相反するものが交互に出てくる。大胆に仕事をダイナミックに進めると同時に、細心の注意を払い失敗を防ぐことが出来る」と、いろんな場面で常に心掛けることで、この両極端を併せ持つことが出来るようになる、と言われる。
経営者は「独裁と協調」「強さと弱さ」「非情と温情」という相矛盾する両面を持っていなければならない。それを局面によって使い分ける。今期1年、厳しい環境の中で、現在来期に向けて取り組んでいることは「両極端を併せ持つ」ことであり、特に私がこれまで苦手としてきた局面、つまり「独裁・強さ・非情」の実践だろう。その目的はただ一つ、「この厳しい局面を乗り越え、会社を必ず存続発展させ、従業員・家族の現在・未来の生活を守り、さらに良くする。併せて、鹿児島に介護福祉事業の健全な発展に貢献すること、である。
今期は「原価低減」「固定費削減」を断行し、来期はいよいよ売上増に向け「組織の見直し強化」・・・要はケアマネさんや利用者様に信頼を得るための活動に大きく踏み込めるか・・・今は、むしろワクワクしている。問題があれば、店長を中心に一丸となり解決を図る。私は従業員がやる気を出せるように脇役に徹して行きたい。
りたい。
稲盛氏は、信用・信頼の上に「尊敬」があり、そこに到達することを到達点とされる。・・・果てしなく遠く高い山だが、親子二代で少しでも近づけるようにチャレンジしたい!
鴨池白波スタジアムと「太陽の賛歌」像と桜島 2023・2・26
雄ちゃんの今昔物語 VOL,103
「案山子」(かかし)の変遷(2022年5月分の再録)
10数年前、NHK・BSでさだまさしの“案山子”が唄われた時のこと。「元気でいるか、街には慣れたか、友達は出来たか?」「寂しくないか、お金はあるか、今度いつ帰る?」・・・聴きながら目頭が熱くなった、振りかえると妻の目にも涙。
今から20数年前、長男が大学卒業後、就職せずに苦学を覚悟の上、映像の専門学校に入学のため上京。さらに次男は大学入学のため熊本へ。2人とも同時に新天地に旅立ち、家はあっという間に、夫婦と認知症初期の母との3人だけの暗い寂しい生活になってしまった。毎日息子たちのことを思い出しては泣く妻だが、心配かけまいと息子たちから電話があるのをずっと待ち続ける健気な妻に、私が息子たちによく手紙を書いていたあの頃のことを、走馬灯のように思い出す。
「お前も都会の雪景色の中で、丁度あの案山子の様に、寂しい思いをしていないか、体をこわしていないか?」・・・「手紙が無理なら電話でもいい、『金頼む』の一言でもいい、お前の笑顔を待ちわびている、おふくろに聴かせてやってくれ」・・・
あれから20数年、長男は東京で映像編集会社に就職し、社内恋愛で結婚、家を建て息子(小3)が一人、よくLINEで孫の写真や動画を送ってくれる。次男は鹿児島で就職、2年後当社に入社し、大学時代からの彼女と結婚して、家を建て、孫娘(中2と小4)と息子(4歳)を連れ時々我が家へ来て、一気ににぎやかになる。コロナ禍の前年(4年前)の夏、長男家族が帰鹿して次男家族と私たちと10人全員で撮った写真は私たちの宝物だ。コロナ禍が続く中、今度10人全員揃うのはいつの日だろうか?
今は夫婦だけの日々を過ごすが、経営に追われる日々。あれから20年余、気づけば今度は私たち夫婦が、終活のことを考える時期になった。これから10数年後、今度は息子たちが、孫たちの旅立ちを見送る「案山子」の心境になるのだろう。
思い起こせば約50年前の3月末、私が大阪に就職する前日、父があらたまって私を呼び出し、正座して色紙を渡して、訓示した。かってしない父の行動に私は戸惑ったが、その色紙には「綿密な計画、大胆な行動」と書いてあった。・・・その翌年、私の結婚を見届けたかのように、父は末期がんを宣告され、5か月後に62歳で亡くなった。その言葉が私には遺言に思え、今も経営の節目節目に、父の声と共に思い出す。
かたや母。大阪に行く当日、私は駅で見送られると泣いてしまうと思い「熊本駅には一人で行くから」、母は寂しそうに門を出て一人見送った。私は照れて「もういいから」と何度も言うのだが、道を曲がるまでずっと見送っていた、ことを思い出す。・・・父の死後20年、母は好きな短歌・書道・旅行等を楽しんだが、70代後半軽い認知症で鹿児島の我が家を「終の棲家」とし、最後はS特養施設に入居し、14年前90歳で亡くなった。
親から私へ、私たちから子へ、そして子から孫へ、伝え伝えて「案山子」の変遷。これが人生の出会いと別れ。親と子は「生まれてから死ぬまで」切っても切れない糸でつながり、それが綿々と幾世代につながって行くものだ、としみじみと感じるのは、70歳過ぎて「死」というゴールをより身近に感じてきているからだろうか?・・・今は妻子や社員たちに「良き思い出となって振り返ってもらえる存在」になれるように、少しでも精進しなければ、と思う今日この頃です。
1999年4月 母(80歳)と熊本城内「満開の桜」