元気通信#173「念ずれば 花ひらく」坂村真民・詩
23期が始まり早や2ケ月、スタートは及第点だが、6月以降真価が問われる。
前期はこれからが伸び悩んだが、今期は常に諦めずに挑戦し続け、真の成長に向け着実に歩んで行きたい。(6月5日号)・・・
あれから1ケ月、6月の結果はまずは◎と出た。会議室に「念ずれば花ひらく」と言う詩人・坂村真民の額を掛けているが、今の私の心境にピッタリだ!きれいな心で「思い続けること」が「念ずること」であり、私の花がひとつひとつひらいて来ているのかな?・・・と信じたい。
約10年程前、ダスキンRA・HRオーナー会が松山・道後温泉で開かれた時、私は雑誌「致知」で真民を知り感銘を受けたこともあり、翌日「坂村真民・記念館」を訪れた。「山水草木」自然を愛し、素朴で素直な言葉で語りかける真民の温かさ・優しさ・時に厳しく諭されながら、しばし癒された数時間を思い出した。
「一難去ってまた一難。でも思えば、この難によって、念が鍛えられ、念の花が咲き、念の実が熟するのだ」と続く。「花は一瞬にして咲くのではない。大地から芽から出て葉をつくり、葉を繁らせ、成長して、つぼみをつくり花を咲かせ、実をつくっていく。花は一瞬にして咲くのではない。花は一筋に咲くのだ」と真民は詠む。「咲くも無心 散るも無心 花は嘆かず 今を生きる」
「木が美しいのは自分の力で立っているからだ」と言う真民の言葉は私には手厳しい。「自分で立てない木は美しい花を咲かせることはできない」と言うことであり、まるで私の依存体質を見抜いているようだ。私はつい最近「自分の依存体質」に気づき、その「脱却と自立」を今期の大きな課題に掲げる。これを超えれば、今期は目標をクリアすることが出来ると確信する。・・・私が自立できれば今期打ち出した「経営理念の具現化」の一歩を踏み出す「試金石」となる。
しかし「一番恐ろしいのは自己との妥協だ」と真民は続ける。これまで私の人生はいつも安易な道を選んでは、失敗してきた。しかしコロナ禍で会社は存亡の危機に陥って、塗炭の苦しみを体験し、「会社は、いかなる危機に遭遇しても、従業員の生活を守るために、成長発展しなければならない」と言う大きな教訓を学んだ。その一番の敵は「自己との妥協」であり、今度こそ「垂直登攀」険しい道を真っすぐに登り、最後まで諦めずに目標達成する肚を固めている。
ある厳しい人から「小林社長は何か持っている」と言われた。私には最大の褒め言葉であり、勇気をいただいた。今期こそ「知識から、見識・胆識」を身に着ける一年にしたい。従業員のため、ケアマネさんにお役立ちし、鹿児島の介護福祉業界に貢献しなければならない。82歳になる経営の大先輩から「千日行を目指せ!」との檄をいただいた。京セラ創業者・故稲盛和夫氏がJAL再建に立ち上がったのが77歳。私はまだ74歳、これからが私の青春、真っ盛りだ!
雄ちゃんの今昔物語 VOL,107
神が降りた!…人生初の試練から抜け出た瞬間(2015年11月リメイク版)
私の70年間の人生で初めての大きな試練は、「高校入学」から始まった。
自慢になってしまうが、私は小学・中学9年間はクラスでトップクラスの成績だった。私の勉強法は「知識を楽しく理解しながら学ぶ」と言うのもので、いわゆる「がり勉」ではなく、「熊本市内中学マラソン」に選抜されたり、人前で歌ったりのパフォーマンスが好きな、明るいキャラの学生だった。
入学したK高校は、熊本県一の受験校で、東大に数十人合格していた。入学直後の試験で、どう間違ったのか、私は高1全体・600人中で32番、クラスでも2番(1番と3番は、後に東大に合格)と言う好成績、しかも4月末開催の校内マラソンでも高1で2位と、俄然目立つ存在になった。
その結果に最も驚いたのは、私自身と両親である。勉強のやり方次第では「もしかしたら東大に」と脳裏に浮かんだ私たちを、誰も咎めることは出来ないだろう。
父なりにいろいろ調べたのだろう。親戚でも特に成績優秀だった義理の叔父が旧制中学時に、休憩時間にも通学時にも、寸暇を惜しんで教科書を「一言一句」暗記した、と父が熱く語り、私も素直に「台本を覚えるように」寸暇を惜しんで「一言一句」暗記をやってみた。
しかし何回読んでも暗記出来ずに、なかなか先に進めなかった。次から次に進む授業に追いつかぬまま、6月の中間テストに突入し、無惨な結果(全体で350番)に終わってしまった。
ここで自分のやり方を見直せばよかったのだが、その時は「やっていることをもっと徹底する」結論を出し、「夏休み補講」も聞き漏らすまいと、一番前で「一言一句」ノートした。しかし暗記が出来ず、さらに中途半端なまま、全く消化不良の状態で夏休みを終了。9月の実力テストでは400番代に落ち、どうしたらよいのか分からず自信喪失し、机に座っても全く勉強が手につかなくなってしまった。そして1年生最後のテストでは560番台(後ろから数えて32番?)に降下。あの明るかったキャラも影を潜め、「劣等生」として冷たい視線を感じ、高校が嫌でたまらなかった。
父はそんな私に「大学は地元のS大か、高卒就職でも良か」と、父の慰めが「親にも見放された」と受止め、絶望する私はまさしく病的゙だった。陸上部も退部、通学するのがやっと、家でふさぎ込む日々は今でいう「ニート」状態だった。一度だけ心配する母に心情を吐露した時、何と母は私以上に落ち込んでしまい「相談する相手を間違った」と苦笑した(今は笑い話)。
しかし高2のクラス替えで、クラスメイトが成績に関係なく接してくれる雰囲気に救われた。成績は相変わらず500番代の超低空飛行だったが、高校の催しがあればクラスでまず最初に私の名が挙がり、クラス一のムードメーカーに復活した。
2学期に入り、私は運動会の応援団に選ばれ、連日連夜の特訓、当日も早朝から練習そして本番、楽しい団体生活を味わった。そして翌月、東京修学旅行では級友とは徹夜でバカ話に明け暮れ、バスの中ではマイクを独占し「英仏伊3か国語の、洋楽ワンマンショー、どこの観光地に行ったか全く覚えてない。1週間があっという間に過ぎてしまった。あまりの楽しさに熊本帰りの夜行列車の中で「このまま幸せの中で、脱線転覆して死んでも構わない」と真剣に思った。
その時「神が降りた」…「これまでの1年半はきっぱり忘れよう!」そして「明日からは、昔のように楽しく学び、誰にも負けない努力をしよう!」・・・との思いが沸々と湧いてきた。
それから世界史・有機化学・数学微積分・日本史等々、一つずつ進めて行った。高校教材は8割方終わっていたので、時すでに遅しの感はあったが、全く気にせずに「目の前の授業に全力投球」して一歩一歩実力をつけて行った。今は懐かしい青春の一コマです!
尊敬する経営者H氏のブログで「人生で2回、神が降りた」と言う言葉に共感。私の「神が降りた」瞬間はここだ!目に見えない何かが私を突き動かしてくれた、今は感謝だ。
K高校2年の3月の最後の思い出に、熊本市郊外・百花園に行った
(後列左から4番目が私)