元気通信 #127「売上を最大に、経費を最小に」

京セラ創業者・稲盛和夫氏の名言に「売上を最大に、経費を最小に」がある。私は最近この言葉をよく使い、基本に活動している。昔から知っていて、経営者として当たり前の言葉だが、どんなに頑張っても売上に結びつかない昨今、この言葉の意味を弊社に落し込んで考えてみたい。

人件費、運賃、消費税等々、昨今は値上げが続く中、価格を変えずに利益を出すのには限界がある。福祉用具は昨年「上限価格」制度が実施され、レンタル価格の自由競争に制約がかけられたので、この中でどうやって「経費を最小に」するかが収益を左右することになった。

全体として数%の縮小の中で、弊社としてはこれまでレントオール(RA)とヘルスレント(HR)の事務を完全に分けていたが、以前からの懸案の一本化を推進した。電話・接客の窓口業務から始まり、少しづつだが事務の一部まで手掛け始めたところである。

しかしこの変化を拒否した従業員は辞めてしまった。私の反省点として「環境の変化に対応できる会社が生き残れる。組織の変化は当り前、部署異動も有りうる」ことを、入社時にしっかりと伝えておくべきだった。今は従業員の入社面接時は必ず伝えている。

まず「売上を最大に」するにはRAもHRも商品回転率を高めることだ。「HR」は特に「連続性」のある営業活動で利用者様やケアマネさんに信頼を得ることに尽きる。3ヶ月定期点検の完全実施と、実績居宅の月数回訪問、断らない住宅改修を基本に、それに積極的に「ケアマネ勉強会」を提案し、「誕生会・クリスマス会等慰問」で皆さんに信頼を得る活動を根気強く継続することだ。

「売上を最大に」と言っても、「RA」はHRに比較して市場が広すぎて、まず「どこを攻めるのか?」的を絞りにくい。まず、現在対応できない地方のベビーベッドの要望にどう応えるか?次に法人客の営業をより効果を上げるには、地道に「サンクス訪問」「実績客訪問」を継続して訪問することを基本としたい。さらにこの5年間での過去実績があったロスト客をリターン化する営業に、私もHR営業の傍ら、RA営業も同時に取り組みたい。

「経費を最小に」と言う点では、RAでは長年手を付けなかった「仕入先の見直し」「仕入価格の見直し」「配達回収料・設営撤去料の見直し」に取り組む覚悟だ。先述したように諸経費が高騰している中、弊社で吸収することには限界が生じているためだ。また慣習となっている一部の値引等ももう一度再考する必要がある。まだまだやるべき課題が山積している。

稲盛氏は「値決めは経営である」と断言する。「お客様が納得し、喜んで買ってくれる最大限の値段(中略)このギリギリの一点で注文を取るようにしなければならな」・・・・・飽くなき利益を追求する姿勢に感服する。、これまで経営が好転しないのは私の怠慢であったとしか言いようがない。今日を機に「売上を最大に、経費を最小に」に一歩ずつ前進することを、ここに誓う!


令和元年9月3日 鹿児島市錦江台
桜島に虹が!

雄ちゃんの今昔物語 VOL,61

「If」・・・もしも? VOL.1

歴史好きの私は歴史上の大事件の「If(もしも)」が好きだ。

例えば「本能寺の変」が無かったら?
「関ケ原の戦い」で小早川秀秋が西軍に加担したら?
「西郷隆盛が入水自害」で死亡していたら?
徳川慶喜が「鳥羽伏見の戦い」で大阪城から江戸に夜逃げしなかったら?
・・・言い出したらきりがない。

「大事件」の後ろにある時代背景を検証でき、さらに歴史の面白さが倍増する。

10数年前に、TVのタモリが司会を務めるで「If」と言う番組があった。
歴史上の事件と言うものでもなく、自分の人生を振り返ってみても、「あの時あのことが無かったら?」と考えてみると運命の妙を感じざるを得ない。

「過去を変えることは出来ない」ので意味がないかもしれないが、それを検証し反省することが未来に向けて「今自分は何をするべきか?」を考えることにもなるのではないか!・・・と勝手に屁理屈をこねる私を、お許しください。

まず「私の誕生」すら父と母が結婚していなかったら?と思うと、太平洋戦争や戦後の帰還等々の偶然の連続の中で「私の存在」がこの世にあることに、両親だけでなく祖父母や、写真すらない祖先の存在に感謝の念を感じざるを得ない。

小学・中学時代、3年時の転校と、中学の寄留入学は自分の意志とは逆だったので、非常に心身に負担を感じた。
約10年前、小学校の同窓会に行っても同クラス以外はほぼ知らず、希薄な関係を感じた。そのまま中学校に行けばもっと厚い友情が出来たのではないかと思うが、これも「If」の一つだ。・・・私の子供たちにはそういう境遇を作らないように、家も同じ校区に引越して通学させたので、その辺りの苦労はせずに済んだのではないだろうか?

小5の時、ローマ五輪マラソンで「裸足のアベベ」が優勝し、それを見てマラソンが好きになった。中学入学で部活に入る時、兄から「絶対に球技をやれ」と強く勧められ、陸上部を断念。当時初めて仲良くなった学友がバスケ部に入部したので私も入部はしたものの、面白みを感じないまま、夏休みで怠け癖が出て、そのまま退部してしまった。

その後も陸上部には入部せずに一人で黙々と長距離を練習し、3年では上位に入り、市内の中学校マラソン代表にまでなった。しかし走法が我流で、高校で入部して、ストライド走法からピッチ走法に矯正される中、どんどん遅くなってしまい、学業のどん底も相まって、高1の最後に失意の中退部してしまった。

ここでもし(If)、中1から陸上部に入部して基礎から走法を身に付けていたら、長距離が好きだっただけに中・高生を通しもっと本格的な長距離ランナーに育っていたのではないか?そうすれば私の人生は今以上にとマラソン三昧ではなかったのではないか?・・・この2つの共通点は「自分の意思に反して決めた」と言うところだ。

中高になると洋楽・ロックが好きになっていたので、1浪後熊本大学でジャズバンドに潜り込み、歌っていた。しかしこれが高校現役で福岡の私立SG大学大学に合格していたら、あの有名なバンド「チューリップ」が学内に居たので、私の性格からして潜り込んでいたのではないか?そう思えてならない。そうなれば、全く違った世界に飛び込み、全く違った人生になったのは間違いない。

人生最大の「If」は、大学の後半知り合った彼女(今の愛妻)の存在だろう。1年留年して就職活動して、それでも1部上場3社に内定した。ミーハーな私は自分の適不適も考えずに当時の人気ドラマ「どてらい奴」に魅かれて大阪のY社を第1候補に決めたことを話したら、彼女は大阪堺の叔父の経営する喫茶店に「先に行って待ってる」と行ってしまった。

その後、Y社が合わないと痛感したが、彼女を裏切って(残り2社の)東京に行くわけにも行かずそのまま入社した。入社直後のY社での試練を彼女に励まされ乗り越え、26歳でA社に転職後結婚、男としての約束を守った。

「If」には「不可抗力」と「抗力」の2種類がある。大学や就職の合否は不可抗力だから仕方がない。しかし家族の強い反対を押し切り、自分の意思を強く主張すれば良かった「中学入学」や「陸上部入部」は12歳の少年には酷かもしれないが、思いはその程度だったのだ。・・・青春の1頁と心に残して置こう。

(つづく)


1950年(昭和25年)頃、1歳前の私(母と姉)
熊本市健軍