元気通信 #128「不退転の決意!」

先月の元気通信で「売上最大、経費最小」を述べたが、今月は「経費最小」の一つとして、現在進行形の社内改革「経営資源の再配分」について述べたい!・・・その前に、今期になってやっとそれをやれる社内環境が整ってきたことがベースにある。

これまでの数年間は、会社の問題点を改善するためにスタッフに協力を要請しても「何でも否定したり、出来ないと拒否するスタッフ」が多く改革は困難を極めたが、「売上最大」の一つの「訪問営業」が功を奏して成果を上げた。しかしまだ強靭な会社には程遠く、特に「経費最小」「先利後資」の核心である「意識改革」と「組織改革~経営資源の再配分」は今期に持ち越してしまった。

しかし根気よく改革を続けるうちに「否定的なスタッフ」たちは去って行き、会社の方針に理解してくれる人達が残り、さらに素直で明るい人達が入社して、やっと今期その環境が整った。

弊社の2事業の構成比がこの数年逆転してしまったが、人員初め経営資源(ヒト・モノ・金)の構成比は以前のままであろる。まずこの構成比を是正して行かねばならない。

そのために、今回実施していることは、経営資源の再配分だ。つまりA事業のスタッフにB事業の業務の一部(営業事務)を担っていただき、そのバランスを是正することだ。と言っても中身の改善は、順序を踏まえて行かねばならない。まず「何故業務を変革・改善するのか?」と言うことを、しっかりと理解してもらわなければならない。次に双方の担当者を決め、しっかりと打合せをして納得の行くまで指導研修をして行かねばならない。双方とも定着するまでは優先して時間を割いて欲しい。

初めてのことで両事業のスタッフも戸惑いが大きいかもしれないが、やり始めた以上、この経営資源の再配分については「不退転」の決意で臨みます!・・・つまり「出来ないから止めた」と言う結論は無いと言うことです。定着するまで、成功するまで諦めずにやり続ける!私にとっても、会社にとっても初めての決断であるから、社員スタッフの皆さんも肝に銘じて、やり抜いて欲しい!・・・これが組織改革であり、意識改革である。

そこで大事なことが4つ!・・・

①まず私が「率先垂範」「誰にも負けない努力」をすること。月間訪問160件以上と、「オンリーワン営業」で多くのお客様に喜んでいただくこと。

②これからは2事業を超えて「情報の共有」「価値観の共有」を図るために、2事業のブリッジ会議等のコミュニケーション強化の仕組みを作ること。

③私が「目標」を明確にして、「数値管理」「PDCA管理」にもう一歩踏み込むこと。

④「スピード感」を持って実行する。
・・・下期は、早く「竹のようにしなやかで強靭な会社」の基礎を作り、社員の幸福な人生を実現しなければならない!まだ未熟な私だが「克己利他」に一歩でも近づけるよう、365日働き、日本一働く社長を目指し、さらに精進します!


2019年4月27日姶良市・M銀行運動会
フワフワ設営直後桜島に虹が!

雄ちゃんの今昔物語 VOL,62

「If」・・・もしも? VOL.2

結婚してからは、仕事・家庭両面で大きな変化がいくつも重なった。

26歳で結婚し、同時に父から紹介された会社に転職、福岡にて新しい生活に入ったが、落ち着く暇もなく、5ヶ月後父は癌で62歳で他界。「父が死期を悟って私を呼び戻したのだな?」と思えてならなかった。

精神的大黒柱を無くし、もうがむしゃらに仕事に没頭した。「生まれてくる子供や、亡き父の思いに応えなくては」、父の死で私の甘えが消え「自立心」が生まれた。

・・・ここで「if」もし父の死がもっと遅かったら?その後の私の人生は全く違っていただろう。

入社2年目から福岡県北九州・筑豊・筑後の営業を担当した。メーカーの営業職が性に合っていたのだろう、すぐに業績を上げ本社幹部から嘱望され始めたようで、29歳で南九州のリーダーとなり「もっと密着した営業をしたい」と駐在を申し出た。

初の「鹿児島出張所」所長として、鹿児島に転勤した。・・・3~4年後には福岡(あるいは熊本)に戻るつもりが、40年経った今、そのまま鹿児島に永住することになるとは

・・・「if」もしも私が鹿児島に転勤しなかったらどうなったのだろう?

さらに、義父が会社を作ると言うことで、31歳で妻の故郷「阿蘇」に呼び戻された。私としては仕事が面白い盛りで、本当に後ろ髪を引かれる思いだったが、「経営者」になる魅力と、家内の弟たちを社会人として自立の責任を感じ、退職の結論を出した。・・・しかし義父との経営手法の違いや私の度量のなさから、何度も激突して、1年後傷心のまま退社した。

・・・ここで「if」もしも私が転職せずに、鹿児島にそのままいたらどうなったのだろう?

それでも幸い前会社に復職できて鹿児島に戻れたのは幸運だった。しかし社内外環境は激変し、大手メーカーの進出で「ブランド力」の前では個人の営業力の限界を痛感した。何とか南九州は踏ん張って業績を維持したが、その間全国の業績が悪化し、頭には「倒産」の2文字がいつもよぎっていた。

当時は小学低学年と幼稚園の2人の男児の父親でもあり、仕事に没頭しながらも、家庭の長として不安を感じている時、10年以上いた福岡営業所長が退職すると言うことで、私が後任に内定した。36歳の夏だった。翌年春に引越しをして福岡で新生活のはずだった。

そんな不安と期待が交錯する中、一部担当入替えのつなぎとして、以前担当していた宮崎の代理店F社社長に久々に挨拶に行ったら「小林君、丁度良いところに来た。新しいビジネスを始める!」と熱く語り始めた。当時は暗い話題が多い中、ひときわ輝いて見えた。その後何度か会い説得されたが、それでも福岡所長の魅力の方が勝っていた。

しかしF社社長が鹿児島出張所(兼自宅)に来て、家内を説得し、家族を食事に誘う熱心さや、「ダスキン」の「ブランド力と「レンタル」と言う未知のビジネスにも魅かれた。「長期的展望ではこっちだな」と肌で感じ始め、F社社長が語る「ダスキンの‟祈りの経営”の魅力」にも魅かれ、異業種に対する不安は大きかったが「命を賭けてみよう」と決心した。

・・・ここで「if」もしも私が挨拶でF社に行かなかったらどうなったのだろう?

そして「ダスキン」の仕事に携わって15年、バブルが弾け経済全体が伸び悩む中、F社の本業も厳しくなり社長との確執が大きくなった頃、私がある資格を目指していることが問題となり、転勤か退職かを迫られた。

今ならば「経営者として随分孤独で悩まれていたのだろう?」ともっと寄り添ってあげれば良かったと思うのだが、その時は「いつも自分のことばかり」

と退職を決め、家内にもその意を伝えた。しかしある方に相談したら「一回、社長を信じ、従ってみたら」と助言をいただき、翌朝一番社長に「転勤」の意を伝えた。

「オー、そうか!」電話の先に社長の喜びの声が伝わってきた。・・・ここで「if」 もしも私が「退職します」と言ったら、その後の独立の道はもちろん無かっただろう!

人生の大きな分岐点で一つ一つ「結論」を出し、今の私がある。

70歳になり、我が人生のテーマは、「会社の禅譲」と「社員とその家族に豊かな人生と幸福を」。

・・・さて次の「if」の分岐点は・・・古希を迎えても尽きることがない!


当時39歳 ダスキンレントオール店長時代。
副店長の仲人をした時の記念写真