元気通信 #129「神のささやき」

会社の経営の厳しさを「外的環境」に原因を求めて終わってはならない。それに対応できない「社内環境」や、変化に気づかない鈍感さ、気づいていても変化できない弱い社内体質・組織風土、その原因は一言で言えば経営者としての実力不足である。

3年前、私も「何とかしなければならない!」と「現場に出る」ことを決め、ケアマネさんがいる居宅介護支援事業所(以下居宅)を周り始めた。せっかく回るんだったら何かお役に立ちしなければ、と「介護情報新聞の配布」とその「分かりやすい説明」を私の使命と心がけた。

半年後から結果が表れ始めた。その間「ケアマネ勉強会」を20件以上開催し、デイサービス等での「ELVIS JOHN 小林(以下EJK)ショー」も始めて、今は毎月2回程開催している。

その後の「上限価格」の規制と競合の進出で、売上伸長は止まり、変動費(原価・外注費)、固定費(車両・人件費・運送費等々)の上昇で、今秋からは再度ギアを第2弾に入れ変えて、全社上げて再チャレンジ中の途上である。・・・今回はヘルスレント(以下HR)のことを述べてみたい。

HRでの最大の課題は「ご利用者様やケアマネさん」といかに「喜びを共有する」かである。そのためには社内では「情報や思いを共有できる」組織を作ること、何よりも経営者自ら率先垂範して活動することである。社員たちに感謝の気持ちを忘れず、毎月HRで「3ヶ月点検」と「居宅等訪問400件」を実施し、「量」ばかりでなく「質」も高めたい。特に私は毎月200件の居宅等訪問を目標に活動し、週末はイベントの設営撤去、12月は8件の「EJKショー」をご予約(10月末迄)をいただいた。

今年私も70歳を迎え、人生の目的を再考している。京セラ創業者・稲盛和夫氏の新著「心」の一節で、述べている。(以下著書より)人生の目的は2つ。1つは「心を磨くこと」・・・日々の仕事に真摯に取組み、懸命に努力を重ねることで人間性は高められる。もう1つは「利他の心」・・・世のため、人のために尽くすこと。それによって人生はさらに素晴らしく、豊かなものになって行くのです。

雄ちゃんの今昔物語・先月号「If」・・・もしも? VOL.2でお気づきの通り、私の人生は「自分の損得で動き、利他の心が乏しい」人生だった。今は「自分は2の次、利他の心」で動き、常に報恩感謝を忘れず「日々仕事に真摯に取組み、懸命に努力を重ねる」ことに全力投球している。私自身「365日、24時間営業」の気持ちで頑張るつもりだ。今が一番「命を賭けている」人生だと断言できる!

前述「心」の一節・・・燃え盛るほどの強い意志を抱き、明るい希望を抱きながら、確実に歩んで行く。(中略)すると一気に視界が開けるように、問題が氷解することがある。これを「神のささやき」と呼ぶ。・・・この天からのご褒美を楽しみに、未来に希望を抱き、「必ず上手く行く」と明るい心で思い続け、日々仕事に真摯に取組み、さらに懸命に努力を重ねてまいります!


令和元年10月20日(日)
鹿児島市「マリンポート」に外国船

雄ちゃんの今昔物語 VOL,63

「母・キミ子」・・・2010年11月 VOL.8 リメイク版

「小さいころのこと、良く覚えているね!」「写真が良く残っていたね!」このシリーズを始めてから、いろんな人から言われる。「ヘー、そうなんだ?」あらためて思ったりしているが、とくに小さい頃には母の影響が大きかったかもしれない。

母は自分のこと、家族のこと、私の小さい頃のことを良く話してくれた。私が見たような記憶として話しているのは案外、母から過去のことを聞いていて、さらに記憶を鮮明にしたのかもしれない。

また小さい頃の写真も母がアルバムにコメントを書き貼ってくれ、この「雄ちゃんの今昔物語」でも活躍している。

母キミ子は、学ぶことが好きで、女学校時代から「教師」になることを夢見た学生だったようで、女学校時代から「合格する」と信じて疑わなかった師範学校「不合格」になった時は「頭が真っ白になった」と何度も聞かされた。戦後「代用教員」をしてやっと納得したらしい。

そのせいか、私が小さいころ母は教育熱心で、私は幼稚園入園前に平仮名、片仮名を覚えてしまい、読書が大好きな少年だった。当時は小学入学で初めて平仮名を学ぶ児童が多かったので、私は授業への対応が早く、低学年から楽しい小学校生活が送れた。

母は小さい頃から「雄二は“希望の灯”」と言ってはばからず、私は「勝手なことばっかり言って」と思いながらも、「親の期待に応えなくては」と、何となく小さいころから思っていた。

母は口下手で、世間話に花を咲かせることが苦手で、人が集まればいつも聞き役にまわり、「お母さんは強い指導者(父)の下で自分の好きなことができれば、それが一番だね」とからかっていた。だから近所の騒音が筒抜けの下町・本荘から、昭和33年(私が小学3年)、清閑な住宅地・壷川に引越した時は、母はとても嬉しかったようです。

小学2年までは母は鶴屋百貨店にパートで勤めていた頃、土曜日の放課後は良く鶴屋に遊びに行っていた。よく昼一緒に食堂で食事をしたのだが、いつも「素うどん」だった。内心「お父さんとは、もっとごちそうなのに」とは思ったが「我が家は貧乏だから」と、不満は感じなかった。母が思い切りお金を使えない性格だ、と私が知るにはもう少し時間がかかった。

私は高校1年間で成績が急降下し、初めて体験した苦しみを誰にも相談できず、悶々とした生活を送っていた。そんな時に母に一度だけ相談したことがある。ところが悩みを聞いた母は私以上に暗くなってしまい、「こりゃだめだ!」と、私は“いかりや長介”になってしまった、と言うのが大人になってからの笑い話だ。それ以来、大事なことで母に相談したことはない。ただこの時ほど「雄二は“希望の灯”」と言う言葉が重く感じられたことはなかった。

それから高校2年後半から、徐々に成績も上がったが、実力養成には間に合わず、大学受験はことごとく不合格、近くの予備校「K塾」にも不合格で、悔しながらも約20分かかる「K予備校」に通うことになった。悔しくて「絶対にK塾生には負けんぞ」と決意した。

ところがK予備校入校式に、母も「出席したい」とバカなことを言い出し、京町の上り坂まで付いて来た。この時ばかりは「付いて来るな!」と怒鳴り帰した。母の寂しそうな視線を感じつつ・・・。母には優しくしたかったが、私も18歳の男、こればかりは受け入れることは出来なかった。

父が62歳で他界してからは、母は「短歌」「書道」「俳画」「詩吟」と趣味の世界に精を出したが、「指導者」願望は全くなく、最後まで良き指導者の下で好きなことをやり、最後は私を良き(?)指導者として、77歳で鹿児島に来て一緒に住み、平成20年5月満90歳で他界した。

最後は認知症がかなり進んでいたが、私を見るや、看護師やヘルパーさんたちに「私の大事な息子、私の希望の灯!」と言ってはばからなかった。

母の3回忌も終え、荷物の整理をしていたら、ケースから「君子書」と清書した立派な書道の掛け軸が出てきた。母が熊本で精魂込めて書いた書が6点ほど。

母の葬儀時には掛け軸に入ってない清書を数点展示したが、立派さはその比でなく、母の生前に発見していたらと悔やまれる。今は仏壇の部屋や書斎に数点掛けている。

父母の遺影の正面に掛けているので、毎日作品を眺めて「ぬしゃ(おまえは)俺が死んでから、ほんなこて好きなことばっかやっとったね!」と父の声が聞こえる。


昭和28年 満4歳の「七五三」
熊本・代継神社