元気通信 #130「人に寄り添う」

 経営者になって19年、最近は「経営は‟人間形成”道場」だと痛感する。創業時に思っていた「営業と言う強みがあればできる」と言う自信はこの数年前に崩れ去った。普通は「引退」する65歳になってからが、私の「人生修行」の真っ只中だ。いかにそれまでが駄目な経営者だったか、痛感する。

 私は欠点だらけだが、その一つが「率先垂範」が出来ずに、社員に求めてしまっていたことだ。この数年「現場第1主義」を掲げ、気づいたことから率先垂範に取り組んで来て、かなり出来るようになってきた。現在心掛けているのは「即行」と「後始末」と「継続」だ。

 苦手なこと、例えば経理・労務的な仕事を後回しにする癖がある。今日(11月24日)も日曜出勤して残っていた所轄官庁や本部に提出する「難解な書類」を作成し、ホッとした。今は「すぐにすること」、すぐにしなくても「いつまでにする」とデッドタイムを決めること、を実践中だ。

 「後始末」も苦手で、すぐ机の上が散らかってしまう。そのせいで必要な書類を探し回る時間が多い。その時間がもったいない、と思い反省するのだが、相変わらず机は雑然としている。昔は倉庫やショールームも雑然としていたが、今は社員パートさんが意識して片づけしてくれ、専務の毎日清掃もあり、格段に良くなっている。後残るは、両店長と私の机の上だけだと思っていたが、最近両店長の机が整理されている。残るは私だけか。

 身に付いていないことをやり始めるのは良いが、定着するまで「継続」することが難しく、よくフェードアウト(尻すぼみ)してしまう。入出金チェックもやっと定着出来るようになったが、今は両事業とも「活動内容」のPDCAチェックの真っ最中だ。レントオールは毎週月曜に実績客訪問の予定と結果の報告をしている。ヘルスレントは居宅訪問400件、点検100%の途中経過報告だ。何としても定着させて、売上アップに結び付けて行きたい。またこれからはこれが両店長の責務として自覚して欲しい。

 さらに私の出来ていないことの一つが「人に寄り添う」ことだ。今はその苦手に挑戦中だ。社員の話を良く聞き、何を望んでいるのか、何が不満で改善するには会社としてどうすればいいか、本人の努力することは何か・・・等々問題から避けずに、一つ一つに真摯に耳を傾け、ある時はしっかり聞き、ある時は厳しく、ある時は優しく、ある時は叱咤激励しなければならない。

 京セラ・KDDI創業者の稲盛和夫氏は、JAL再生のために、幹部社員の前で「私はみなさんを愛しています!」と言ったそうです。「この人はすごいな!」、ここまで真から思わないと真に「寄り添っている」と言えないのではないか?と衝撃が走った。「人を愛する‟利他”の心」が、再生1年目からV字回復させた「JALの奇跡」を産み出した。・・・私もまずは身近にいる社員パートさんたちに「寄り添って」行きたい。これが自分の「我を捨て、利他の心」を産み出して行くことを信じたい。


2019年12月1日
鹿児島市甲突川河畔 松方正義像と、弦楽四重奏

雄ちゃんの今昔物語 VOL,64

「雄ちゃんとマラソン」(2011年6月リメイク版)

 マラソンを知ったのは、昭和35年小5の時、ローマオリンピックで「裸足のアベベ」が金メダルを取った時だった。実況中継は無かったが、TVニュースを見て「神秘的なアベベ」が夕闇迫るローマの凱旋門をくぐりゴールし、「もう一度走れる」と豪語し、神様にも似た強烈な印象を受けた。
 当時の日本のマラソン界は、1964年の「東京オリンピック」に向けてとにかくエースが欲しい時だった。そんな昭和36年12月小学6年の時「朝日(現福岡)国際マラソン」で寺沢と中尾が死闘を演じ、寺沢が当時の世界最高記録(2時間15分台)で優勝した。ところが3位で競技場に帰ってきた「首を振り、異常に苦しそうに走るランナー」にくぎ付けになった。そのランナーの名は「君原健二」当時八幡製鉄所属・20歳の無名ランナーだった。翌年2月の「別府(現別大)毎日マラソン」ではエース寺沢と新鋭君原の死闘となり、私は負けた君原の大ファンになってしまった。  

 私はマラソン大会の時期が冬のため、毎年よく風邪をひき欠席か見学だった。小学6年で初挑戦、6年男子で9位だった。前年2位だった同級生のM君が、熊本の「かもしか少年」で有名だったS君に勝ち優勝した。同じ組でもあり、仲良しだったので非常に嬉しかった。
 中学校では、兄から「部活は球技がいい。」とか「マラソン選手は背が小さい」とか言われ、「バスケットボール部」に入ってしまったことが、今でも悔やまれてならない。私は部活に力が入らず、2学期からは退部してしまった。

 最初バス通学だったが、冬からは徒歩に変えたことが、足腰の強化につながったようだ。校内マラソン大会では、1年で19位、2年で9位、3年では陸上部員ばかりの中で走り(熊本でトップ2の2人は別格)ラストで3位に負け、4位となり、白川中学代表10人に選ばれたのは嬉しかった。
 陸上部に入らず、一人で我流で走っていて、「君原」のマネをして「クビを振って」走っていたので、本当に異常な走法だった。私が15歳の時、東京オリンピックがあり、円谷選手が3位銅メダルをとって一躍有名になった時(君原は8位入賞だった)、報道の主役が雪崩を打って「君原から円谷に変わった」現象は私には衝撃だった。1日にして英雄となった円谷が4年後に自殺、世間の大きな期待と実態のギャップを埋めきれなかった円谷選手の死は、私の大学入試直前の葛藤と相まって、暗い影を落とした。

 熊本高校に入学して陸上部に入部、5月の校内マラソン大会で1年生でトップ争いして、2位でゴール。しかし華やかだったのはこのころまで。独特の「クビ振り・超ストライド走法」の改善を迫られてからは、練習しても遅くなるばかりで、学業とともに成績はどんどん下がるばかり、1年も経たないうちに精神的に走れなくなった。当時の「私のすべて」だった「長距離」と「学業」がだめになった高校1年から2年の途中までが、私の学生時代の「暗黒時代」だった。
 大学1年で再び長距離を走り、中堅だったが1年で膝を痛めて退部。この時に「気軽に楽しく走る」ことを覚え、社会人となってからも、ジョギングとは縁が切れない人生となってしまった。

 結婚をして、生活が安定したのか10㎏以上も体重が増えたが、35歳から妻のダイエットに合わせ、一念発起、ジョギング再開。10㎞を38分代で走れるようになり、「谷山故郷まつり」対抗駅伝や中山校区運動会等で大活躍し、二人の子供には「父親の威厳?」を見せることができ、長距離をやってて本当に良かったと思ったものだ。
 念願の「指宿菜の花マラソン」にも挑戦し、37歳から8回ほど完走し、自己最高は「3時間40分」。その後仕事の都合や手術したりで中断した時期もあったが、60歳前半までは気持ちよく完走していた。63歳の時に走った「大坂マラソン」で「4時間37分」で走り、還暦後の最高記録となった。しかしそれからはワースト記録を更新するばかり、だんだんと身体が高齢化していることを痛感している。

 ただもう一度「大阪マラソン」を完走して「ラストラン!」にしたいと思っている。今年は満を持してフルは欠場したが、齢相応のジョギングを毎朝40分、日曜朝は約2時間のロングランを日課としている。健康のために・・・。


昭和63年39歳 指宿菜の花マラソンゴール直前
愛妻と次男(現ダスキンヘルスレント店長)