元気通信#136  コロナ後も「何としても生き残る!」

 長期化するコロナ禍の中で、第2ステージに入り「アフターコロナ」とか「コロナとの共存・共生」とも言われ始めている。「新型コロナウィルスを絶滅する」ことは困難であり、むしろ「コロナと共存共生すること」が現実的であると言うことだろうか。とにかくコロナ以降は、新しい時代を迎え、大きく違った世界が出来ると言っても過言ではない。劇的に変化する生活や仕事にしっかりと合わせて経営を継続して行けるか、経営者としての真骨頂だろう。

 私としても乗り越えなければならない「人生で最大の高い壁」がある。今年2月からイベントの100%キャンセルに始まり、3月から続く売上の激減には手を打つ術がない。早く終息して欲しいとの気持ちを逆なでするかのように、さらに影響は大きさを増し、怒涛のように私たち中小企業を飲み込み、日本中を非常事態にして国民の生活・仕事を一変させてしまった。人生で初めて経験する大惨事に驚愕するばかりだ。しかし、コロナ禍を「社会のせい」だけで捉えてはいけない。この「大激震」は、私自身の問題として、私の至らなかった点に警鐘を鳴らしている、と捉えている。

 まず大事なことは、激変する「コロナ後」の社会に今の事業で生き残れるのか?もし生き残れないと悟ったらどうするのか?、大きな決断に迫られる。恐らくこれまでの多くの事業が採算が合わずに消えていくだろう。その代わりに多くの新しい事業が誕生するだろう。その変化に対応する力があるのか?多くの経営者が試されている。弊社も生き残りをかけて会社の事業再編を決めて、大きく舵を切り始める。

 私のこれまでの19年間の経営者人生で最大の反省は、いたずらに事業拡大に意欲を持ったことだ。会社の目的は「会社の利益を上げ、社員の待遇改善(従業員の安定雇用)と会社の内部留保につなげ、会社を基盤強化・継続(会社の維持)し、社会に貢献する」ことを後回しにしてきた。これに「駄目出し」してくれたのが「コロナ禍」かもしれない。そして弊社の事業再編のきっかけを作ってくれた。これで私が変わらなかったら私の人生に明日はない!

 これまで経営者として「リスク管理が全く出来ていなかった」と言う大きな反省がある。こういう事態が起きても右往左往しない強靭な会社を作るために、これからはもっと「壮大な高い目標」を掲げて、その達成に向かって、まず私が誰よりも働き、かつ目標達成のための明確なビジョンを描き、それを実行しなければならない。

 京セラ創業者・稲盛和夫氏の「6つの精進」の一つに「反省ある毎日を送る」がある。・・・「易きに流れる」のが人間の本質かもしれないが、そこを乗り越える為には、まず「壮大な高い目標」を持ち、日々自分を振り返り、謙虚に反省し、「明日は今日の自分より成長する」と毎日決意すること。19年前、創業時の初心に還ってこれを継続する覚悟である!

 一つは「生涯一営業」としての顔。4年前に居宅ケアマネさんの月一回の訪問を始めて「私には営業が一番合っている」ことを再発見したが、毎月200件以上の訪問で、質量共にケアマネさんの信頼を得て、ダスキンのブランド力を格段に高める!・・・老害にならないように注意して(笑)

 もう一つは「経営者」の顔。明確なビジョンを掲げ、数値目標とPDCAを明確にして、社員には、ある時は厳しく、ある時は優しく寄り添いながら、目標を必達すること。さらに福祉用具を核に、高齢化社会に必要なサービスを考え、社員の育成に専念したい。残念ながら暫くは「ELVIS JOHN 小林」ショーは休業なので、その日が来るのも楽しみにして・・・


「フェースシールド」で訪問活動する私です!

雄ちゃんの今昔物語 VOL,70

70年前の思い出・・・(VOL,2 2010年3月 リメイク版)

 71年前、熊本市健軍町の「秋津寮」という戦地から引き揚げてきた人たちの集合住宅(大広間一部屋、共同流し、共同トイレ)の2階の一室で、昭和24年4月28日に、父正三(36歳)と母キミ子(32歳)の間に生まれた。・・・「何で人がたくさん生まれた時に生んだんね?」小学生のとき母に聞いたことがあるが、そのころは後に言う「ベビーブーム」は予想できなかったそうだ。

 5月5日が出産予定で、母はしばらくは映画も見れないと言うことで、4月27日にJ・ジョーンズとW・ホールデン主演の「慕情」を見に行ったそうだ。その後家に帰ってから陣痛が始まり、翌日私が生まれたと言うことです。私の洋画・洋楽好きはその時から始まったのかも知れない。今、ナット・K・コールの「慕情」は私のカラオケ18番の一つです。

 私の最初の記憶は定かではない。健軍でのわずかな記憶だが、舞台は「夕焼けの健軍小学校の周囲の田んぼのあぜ道」。私は母におんぶされ姉と3人、姉が「明日天気にな~れ」と下駄を足で投げたら、下駄が田植えの田んぼに落ちたことを覚えている。その後はどうなったのか・・・・

 食事の準備や洗濯は、寮の一階まで下りて、共同流しで主婦が話しながらだった。便所もいちいち下まで降りて外に出て共同便所(もちろん汲み取り式)で用を足していた。真冬なんか寒くてたまらなかったでしょうが、ほとんど覚えてない。それにしても今では全く考えられないことです。

 その中でも最もよく覚えていることは、「猫落とし事件」。猫は背中から落としてもくるっとまわって足から落ちる、と聞いた当時3歳ぐらいの私はそのことを確認しようと、早速近所の猫を使って実験した。・・・・胸元から落としたらちゃんと足で着地する。なるほどと、階段に上って途中から落としても、きちんと着地。それではと2階に上って我が家(部屋)から下に落とした。さすがの猫も驚いたのか、くるっとまわって着地したものの、いちもくさんで走って逃げて行った。「やはり聞いたことに間違いはなかった」私が確信を深めた、生まれて初めての生態実験だった。

 4歳頃、熊本市の下町・本荘町中通に引っ越した。トラックに荷物を積み、助手席に父にだっこされ、のどかな健軍を後にした。今に比べ荷物が極端に少なかったのを覚えている。恐らく、母や兄姉は市電を乗り継ぎ、本荘まで行ったのか、それは定かではない。

 今年(2010年)3月4日は、孫娘「穂実」の1歳の誕生日だった。今は、出産直後から写真とビデオに撮るばかりでなく、お腹に居る時から写真を見ることができ、孫の「きれいな顔立ち」(爺バカ?)にびっくりしたものだが、生まれてきた時に、その時の顔立ちがそっくりだったのにも驚いた。

 文明の発達は目を見張るものだが、いつの時代にも変わらない(変わって欲しくない)ものは「親の子を思う」思い、「子の親を思う」思い、そして最近思うことは「何十年も連れ添ってくれた妻に対する感謝の念」です。これからは、機会を作って夫婦で旅行でもして、少しでも労をねぎらいたいと思う。
 
 ・・・2020年6月、あれからあっという間の10年、このころが独立して9年、経営者として最も脂がのっていた頃ですが、当時の会社は勢いばかりが先行し、私に「謙虚にして驕らず」の姿勢が見られず、人間的に成長しなかった時期だったと反省しながら、読み返した。

 これから10年後、私が生きていたら81歳。あっという間の人生だな、とつくづく思う。10年前はまだ人生は無限で何でも自分が、だった。70歳を超え、さすがに体力の衰えを肌で感じ始めた今、「人生は有限」であり、その中で自分の役割を「後輩に道を継ぐ」と考え仕事に精励している。そして「生涯を通して最も働いている」今の私が大好きです。(顔のしわと薄毛を除けば)


昭和25年1歳前
熊本市健軍町 秋津寮で母と