元気通信#141 反省ある毎日を送る
コロナに始まりコロナで終わる「2020年」は戦後最大の事件になって歴史を変えるのではないだろうか?いよいよ2020年も残すところ後1ヶ月余となった。世の中も激動の1年だが、弊社にとっても、創業以来最大の危機であり、大変革の1年となった。幸いにも存続の道を切り拓き、7月からはダスキンヘルスレント(福祉用具貸与・販売・住宅改修)単独での再スタートを切り、12月からは新栄町に社屋移転し環境も変わる。身も心も一新し、新生「YTSフレックス」のスタートだ。
まずこれまで「事業譲渡ー社屋売却ー移転」の「3段跳び」にご尽力いただいた関係者の方たちとSomething Great(お天道さま・神様?)に感謝(拜)。そして、もう一度皆様からいただいたラストチャンス=「経営者」としての活躍の場を通し、真摯に心を磨き、従業員・関係者の皆様・お客様・ケアマネさん・そして鹿児島の介護福祉業界に真にお役立ちして行く覚悟です!
「初心忘るべからず」と言う格言がある。逆に「のど元過ぎたら熱さ忘れる」とも言う。・・・今の真摯な気持ちを持続させるには、「毎日、その日を振り返り、反省する」と言う、人間として正しい行動を取ったかどうか、確認する作業が必要です」・・・こう語るのは、経営の師と仰ぐ「京セラ・KDDI」の創業者・稲盛和夫氏の「6つの精進」の一つ、「反省ある毎日を送る」の一節である。
イギリスの哲学者「ジェームス・アレン」は、・・・人間の心は庭のようなもの(中略)、優れた園芸家は、庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種をまき、それを育み続けます。私たちも素晴らしい人生を生きたいのなら、自分の心の庭を掘り起し、不純な誤った思いを一掃し、清らかな正しい思いを植え付け、育み続けなければなりません。・・・と語る。
人間には元来生きて行く上で必要な「煩悩」(いろんな欲望)と言うものがあり、これが厄介な怪物であり、これが果てしなく大きくなり過ぎると、周囲にも、社会にも大きな悪影響を与えます。これを抑えるにはまず「足るを知る」ことを自覚し、日々「反省」をすることではないでしょうか?
社会人となって50年、経営者となって20年、「何故、自分だけがこんなに苦しまなければならないのか」と悩み、何度も挫折しかけては頑張って乗り越える、その連続でした。しかし翻って考えてみると、私が心の庭の手入れを怠り、己の煩悩を優先して、雑草を生い茂らせては危機に直面して現在に至ったのだと、猛省です。それでも私がこうして生き残っいるのは「もう一度経営者として、人間を磨き、良い会社を作り直し、真に社会に貢献せよ!」と言う「神様の啓示」かもしれません。
私も70歳を過ぎ、今度がラストチャンスだと肝に銘じている。絶対にこれまでと同じ轍は踏まない、覚悟です。弊社経営理念の行動指針「日々感謝と反省を積み重ね・・・」、謙虚にして驕らず、一歩一歩誰にも負けない努力を続けます!
与次郎(鹿児島市)海岸線
2020年10月25日
雄ちゃんの今昔物語 VOL,75
「少年雑誌」と「漫画」(2011年7月号のリメイク版)
熊本市本荘町で私が4~5歳ごろ、字を教えてもらってからは、とにかく本が大好きになり、当時は小学館の「幼稚園」という雑誌を買ってもらい読んでいた。幼稚園に通園するようになってからは「小学1年生」を買い、「1学年上の子と同等の勉強をして行こう」と思っていた。
しかし、小学校に入学し、授業で学ぶことにスライドした雑誌の方が勉強になると気づき、小学2年からは雑誌も「小学2年生」を買うようになった。毎月発刊日には学校を終えたら、真っ先に近くの本屋に走っていき、隅から隅まで舐めるように雑誌を読んだものです。
小学3年になって雑誌「小学3年生」の「お山の三四郎」という連載漫画で、初めて漫画家「手塚治虫」のことを知った。都会の子「三四郎」が山地の田舎に引っ越してきて田舎の小学校に転校し、毎回いろんな事件に遭遇する、と言った一回完結の漫画だった。私も小学3年の途中で引っ越したこともあり、楽しく読んでいた。その最終回(3月号)は、三四郎が再び都会に戻り、大人になって懐かしく、その山地の田舎に帰る、と言う設定。その集落には誰一人住んでなく、集落跡、学校跡だけが残っているという終わり方だった。今問題化されている「限界集落」、現在の日本の問題点を既に50年以上前に予言していたような漫画で、私の中では「たかが漫画」とは思えぬ名作である。
壷川小に3年時に引っ越してからは、「小学○年生」は堂々と本屋で買う雑誌。それに小学校奨励雑誌として学習館の「○年の学習」が何と小学校の図書館で購入していた。こちらは学習教材と言った内容で、正直授業の補助教材として活用、漫画も少なく、正直面白くはなかった。
逆に、我が家では日陰の身でありながら、社会的には爆発的に売れていたのが、月刊「少年雑誌」「少女雑誌」だった。ほとんどを連載漫画が占め、付録には「戦艦」「軍機」と言った紙工作が付き、本紙連載の続きの漫画単行本が10数冊、合計20数大付録と言う「豪華さ」を競っていた。「少年」「少年ブック」「少年クラブ」「漫画王」「冒険王」「野球少年」と言った類です。(少女雑誌は全く興味なし)
我が家では厳格な父が「漫画ご法度」だったので、公では読めなかった。そこで小遣いを集め、近くの駄菓子屋で貸し本を借り、せっせと読んでは翌日また借りる、という方法で上記6冊を毎月読破していた。特に「手塚治虫」の漫画は「勧善懲悪」だけでなく、地球創造・宇宙規模、時空を超えたスケールの大きさがあり大好きだった。その最たるものが「鉄腕アトム」でしょう。
昭和34年春、小学4年生になる春休み、少年雑誌界に革命が起きた。月刊誌華やかなりし時、少年週刊誌が二誌同時発刊された。「少年サンデー」と「少年マガジン」です。その時発刊された「少年サンデー」をどういうわけか父が買ってくれたのです。この時は胸を張って堂々と読めた。
表紙は巨人の新人王・長島選手が小学生に耳を傾けている写真。当時は今の大人の週刊誌に似た作りになっていて、グラビアから始まり目次があって、そのあと少年向けのニュース記事が書かれ、そのあと連載漫画が占める構成になっていた。売価は30円だった。
当時の連載漫画は野球漫画の寺田ヒロオの「スポーツマン金太郎」、ちょっと遅れて始まった手塚治虫の「0マン」、石(ノ)森正太郎の「海の王子」といった内容だった。やはり手塚治虫漫画の時空を超えたスケールの大きさが大好きで、翌週が待ち遠しくて、うずうずしたものです。
中学生になると少年雑誌には少しずつ興味が薄れ、高校以降は皆無となった。大学時代は周りが「少年マガジン」等の社会派漫画を読んでいたため、若干は読んだが、愛読したことはない。結婚後、大人の漫画雑誌を読む機会が増えた。特に「ビッグコミックオリジナル」は毎週買って読んだ。好きだったのは「3丁目の夕日」「はぐれ雲」「博多っ子純情」「あぶさん」【釣りバカ日誌」等々です。
特に西岸良平の「3丁目の夕日」や「プロフェッショナル列伝」の昭和30年代のノスタルジックな漫画には、懐かしさと郷愁を感じた。漫画のラストシーンでは何度も鳥肌が立ったこともある。後に「3丁目の夕日」の映画がヒットし、同じ思いを感じる「団塊の世代」がいかに多いかが証明されたようです。
戦後、私たち「団塊の世代」はその時代ごとに、ブームを作ってきた。2025年、この世代が75歳以上になり、2040年高齢者がピークに達し、どんな社会になるか?・・・私はあくまでもポジティブに、その時代が求めるニーズを感じ取り、仕事で実現して行きたい。
壷川小学校卒業式後
男子前2列目、左から2人目の「笑顔が爽やかな少年」が私です