元気通信#146「強烈な願望を抱く!」潜在意識に透徹するほどの強く持続した願望を抱く

 会社創業して今日で「満20周年」を迎える。順調な時もあったが、反省することが多い20年だった。しかし曲がりなりにもこの大きな節目を迎えることが出来ることに、まず感謝したい。またこれまで辛い時にも支えてくれた社員たち、家族、そしてケアマネ様や多くの関係者様たちにも、この場を借りて、お礼を申し上げるとともに、これからもよろしくお願いします。

 特に、この1年は大きく動いた1年だった。日本中・世界中を震撼させた「コロナ禍」の中、弊社もイベント部門の売上が消滅するという、前代未聞の危機に直面したが、1年後「新生・YTSフレックス」として生まれ変わることが出来たことは奇跡に思える。その辛苦から得た教訓に感謝し忘れることなく、これからの会社経営に大いに活かして行きたい!

 21期を迎えるにあたり、「30期までの長期ビジョン」と今期「21期経営計画」を作成した。30期までに経営理念を実現する。21~25期までの「第1次経営計画」では「従業員の物心両面の幸福」を第一に「強靭な会社」を実現し、26~30期の「第2次経営計画」に移行したい。

 そして30期までの「第2次経営計画」は、第1次に蓄積した「経営資源」を基軸に、経営理念の後半の「介護福祉事業を通して、鹿児島の発展に貢献する」ことだ。鹿児島の介護福祉業界に影響を与えるポジションを掴み、介護福祉事業の健全な発展と、介護に携わる人たちの幸福を実現することだ。・・・その実現までは、私も健康に留意して、「元気で長生き」しなければならない!

 「言うは易く行うは難し」これまでも幾度も計画を立てては失敗を繰り返してきた。過去の失敗の原因を振り返ると、一つは「動機善なりや、私心なかりしか」の考え方が薄弱であった。一つは「先利後資」の原則を逸脱していた。そして最後の一つは「強烈な願望を抱き、計画を諦めない覚悟」が全く出来て無かった。

 今回は、私の「人生最後のチャレンジ」になるだろう。京セラ創業者・稲盛和夫氏「経営12か条」3条の「潜在意識に透徹するほどの強く持続した願望を持つ!」ことは全く未知の世界で、壁は厚く高くそびえている。しかし「現場に答あり!」私がまず率先垂範して答を出すまで諦めずに一歩一歩前進する覚悟だ!「鹿児島・最高齢営業マン」の営業活動はそれまで続きます!さらに4月からは鹿児島市北部、姶良市にも1年ぶり伺います!ケアマネの皆さん、お楽しみに!


平川・錦江湾公園ロケット広場 2021年3月撮影
(1989年3月 サザンピア21博覧会で展示されたロケット2機)

雄ちゃんの今昔物語 VOL,80

「目立ちたがり屋」(2011年10月リメイク版)

 子供のころから、人前でしゃべったり、唄ったり、踊ったりすることが好きだった私は俗に言う「目立ちたがり屋」の典型でしょう。グループの中でも「仕切り屋」の私は、良く言えば「リーダー」と言えるが、悪く言えば「自分勝手」だったと思う。両親のどちらに似ていたのか?人前で仕切ることが苦手だった母親似ではなく、会社の行事等で流暢に司会をしたりしていた父親似なのだろう。

 TVが普及し始めてからは、見よう見まねで歌や踊りを覚え、初めてパフォーマンスしたのは小学4年のお別れ会で3人で唄ったNHKの人気番組「お笑い3人組」。クラスの「トップ3」3人の歌と踊りに先生も驚かれ、非常に喜んでくれた。高学年になるとロカビリーやツイストが流行り教室でよく踊っていた。6年の文化祭では保護者(当時は「父兄参観」と言っていた)の前でホウキをギター代わりに持って唄ったのが、当時人気沸騰中の植木等の「スーダラ節」だった。

 中学・高校になると我が家もステレオを買い、レコードも少しずつ揃えて、好きな「ロックンロール」「オールディーズ」の洋楽を中心に学校でも休み時間に唄っていた。高校に入ると「ビートルズ」「ベンチャーズ」バンドブームが起こったが、長髪が「不良のレッテル」が貼られる時代、基本「良い子」の私はそこまで踏み込めず、高校の東京修学旅行のバスで「ワンマンショー」をし、仲間の喝采で満足していた。

 小中学校までは、成績も上位で負けず嫌い、自分を良く見せようと「見栄っ張り」のところも多く、今思えばちょっと「いやな奴」だったかもしれませんね。しかし、高校に入って成績が急降下し、すべてに自信を失ってしまった。1年半後、真っ暗闇から少しずつ光を見出してからは「背伸びはせず、ありのままの自分で行こう!」と考え方が変わり、その後は“ありのまま”の「目立ちたがり屋」(笑)に変身した。

 一年浪人してやっと入学した熊本大学は大学紛争でストライキの真っ最中、好きなビートルズやオールディズを唄いたいと思っていたが、サークル活動は「君はどう大学闘争に関わるのか?」を求められ、バンドもほとんどがメッセージ色の濃い「フォークソング」が主流。単に「メロディ」や「リズム」と言う音楽性を求めてもキャンパスでは「ナンセンス!」。一旦は陸上部に入部したものの「やりたいのは好きな音楽を唄うこと」と大学2年にキャンパスを離れ、ちょっと危険と誘惑の多い「夜の社交場」“ディスコ”や“クラブ”でアルバイトし、ジャズバンドと仲良くなり、大好きな洋楽ポップスを唄わせてもらった。「人前で唄い、パフォーマンスする」目的は果たしたが、おかげで1年留年してしまった。

 社会人になって「人前で唄うこともないだろう」と思っていたら「カラオケ」が登場!業界等宴会では洋楽・ロックを英語や仏・伊語で唄い踊るパフォーマンスで、業界一の「目立ちたがり屋」と化してしまった。経営者になっても、その流れは今でも続いている。仕事の中身よりもパフォーマンスが先行し、本当の私は「真面目な経営者」だが、そう思ってくれる知人は少数派だろう。

 私がダスキンレントオールの店長だった30年前、オーナーとよく仕事のことで言い合いをした。ある時オーナーから「見栄っ張り」と言われた時「私は“目立ちたがり屋”だけど“見栄っ張り”じゃないです!」と言い返してしまった。私としては“正論”を言ったつもりだが、経営者になった今「もっと良い返し方は出来なかったものか?」今思い出しては、反省しきりです。


昭和40年3月・中学卒業式後/ホウキ片手に
ビートルズ「ツイスト&シャウト」(左が私)