元気通信#147「最悪を受け入れる」

 今年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公「渋沢栄一」の生涯を興味を持って毎週観ている。今は始まったばかりの青年期だが、渋沢青年が尊王攘夷運動の志士から脱皮し、後世近代日本の「資本主義の父」と言われ、500もの会社や事業を興した(ノーベル平和賞に2度もノミネートされる)、彼の変化の源泉の一端でも理解出来れば、少しでも身に着けたい、と思っている。

 併せて渋沢栄一の四男秀雄氏の著「澁澤榮一」も読み始めた。ちょうど万国博覧会に参加するために、フランス渡航するところまで読んだ。その中で渋沢が土方歳三(新選組副長)との筋道論のやり取りで、肝の据わった渋沢の行動に、土方が「理論の立つ人は勇気がなく、勇気のある人は理論を無視するが、貴公は両方備えている」と褒めてくれた、と息子たちに自慢している。

 とっさの時に我が身を守るために、逃げ腰になる人が多いのは、古今東西それが世の常なのだろう。かくいう私も、嫌なことを避けることが多々あったが、大体そんな時は良い結果が出ていない。逆ににっちもさっちも行かなかった時、「もうやるしかない!」と開き直った時の一手で状況が劇的に好転することを何度も経験した。またその副産物が「自己の成長」である。

 全世界で「聖書」の次に読まれている本に「道は開ける」(D・カーネギー著)がある。その一説に「最悪の状態を受け入れた時、奇跡が始まる」には40年前に出会い、苦しい時は何度も見直し実行した。①起こりうる最悪のことを考え、②最悪のことを受け入れ、③最悪のことを改善する。私も30歳代から40歳代は公私に受難の時代であったが、これを乗り越えたから、今がある。

 この「3ステップ」のベースに「人として正しいことを行う」ことが前提であり、外れると天も味方してくれない、これも稲盛和夫氏の「人生の方程式」の考え方に出会って学んだ。今は節目節目に「正しいか否か」を常に自問自答するように心掛けている。

 コロナ禍の1年、劇的に好転した1年であったことにまず感謝したい。そして今期(21期)は「再起の1年」として何としても目標を達成して「5か年計画」「10か年ビジョン」の初年度を飾らなければならない。「従業員の物心両面の幸福を第一として、介護福祉事業を通して鹿児島の発展に貢献する」理念の実現に向けて、利用者様やケアマネさんたちのご要望に真摯に取り組み、しいては介護福祉業界の健全な発展にも貢献できるように、粘り強く一歩一歩積み上げて行きたい。・・・・既に私たちには「未来に向けた明るい兆し」が幾重にも射し込んでいる!


鯉のぼり
甲突川・伊敷 2021年5月2日

雄ちゃんの今昔物語 VOL,81

「案山子」(かかし) の変遷

 10数年前、NHK・BSでさだまさしの“案山子”が唄われた時のこと。「元気でいるか、街には慣れたか、友達は出来たか?」「寂しくないか、お金はあるか、今度いつ帰る?」・・・聴きながら目頭が熱くなった、振りかえると妻の目にも涙。

 今から20数年前、長男が大学卒業後、就職せずに苦学を覚悟の上、映像の専門学校に入学のため上京。さらに次男は大学入学のため熊本へ。2人とも同時に新天地に旅立ち、家はあっという間に、夫婦と認知症初期の母との3人だけの暗い生活になってしまった。毎日息子たちのことを思い出しては泣く妻だが、心配かけまいと息子たちから電話があるのをずっと待ち続ける健気な妻に、私が息子たちによく手紙を書いていたあの日のことを、走馬灯のように思い出す。

 「お前も都会の雪景色の中で、丁度あの案山子の様に、寂しい思いをしていないか、体をこわしていないか?」・・・「手紙が無理なら電話でもいい、『金頼む』の一言でもいい、お前の笑顔を待ちわびている、おふくろに聴かせてやってくれ」・・・

 あれから20数年、長男は東京で映像編集の会社に就職し、社内恋愛で結婚、家を建て息子(小2)が一人、よくLINEで孫の写真や動画を送ってくれる。次男は鹿児島で就職、2年後当社に入社し、大学時代からの彼女と結婚して、家を建て、孫娘(中1と小3)と息子(2歳)を連れ時々我が家へ来て、一気ににぎやかになる。コロナ禍の前年・一昨年の夏、長男家族が帰鹿して次男家族と私たちと10人全員で撮った写真は私たちの宝物だ。コロナ禍が続く中、今度10人全員揃うのはいつの日だろうか?

 今は夫婦だけの日々を過ごすが、経営に追われる日々。あれから10年余、気づけば今度は私たち夫婦が、終活のことを考える時期になった。これから10数年後、今度は子供たちが、孫たちの旅立ちを見送る「案山子」の心境になるのだろう。

 思い起こせば47年前に、私が大阪に就職する前日、父があらたまって私を呼び出し、正座して色紙を渡して、訓示した。かってないことに私は戸惑ったが、その色紙には「綿密な計画、大胆な行動」と書いてあった。・・・その翌年、私の結婚を見届けたかのように、父は末期がんを宣告され、5か月後に62歳で亡くなった。その言葉が私には遺言に思え、今も経営の節目節目に父の声と共に思い出す。

 かたや母。大阪に行く当日、私は駅で見送られると泣いてしまうと思い「熊本駅には一人で行くから」、母は寂しそうに門を出て一人見送った。私は照れて「もういいから」と何度も言うのだが、道を曲がるまでずっと見送っていた、ことを思い出す。・・・父の死後20年、母は好きな短歌・書道・旅行等を楽しんだが、70代後半軽い認知症で鹿児島の我が家を「終の棲家」とし、最後はS施設に入居し、12年前90歳で亡くなった。

 親から私へ、私たちから子へ、そして子から孫へ、伝え伝えて「案山子」の変遷。これが人生の出会いと別れ。親と子は「生まれてから死ぬまで」切っても切れない糸でつながり、それが綿々と幾世代につながって行くものだ、としみじみと感じるのは、70歳過ぎて「死」というゴールがより身近に感じてきたからだろうか?・・・今は妻子や社員たちに「良き思い出となって振り返ってもらえる存在」になれるように、少しでも精進しなければ、と思う今日この頃です。


1999年4月 母(80歳)と
熊本城内「満開の桜」