元気通信#149「神は細部に宿る」
ある著名な建築家の言葉だそうだが、「神は細部に宿る」という言葉がある。弊社経営理念の第一に「日々感謝と反省を積み重ね・・・」があるが、「反省の中から課題を一つ一つ改善していく姿勢、効率性や生産性を上げ、少しでも完璧に近づこうとする、真摯な姿勢がまさにそれではないのか」と思う。「世のため人のために役立ちたい」と心から思い、日々「誰にも負けない努力」をした結果、思いもしない好結果が出た時に、人は畏敬の念をこめてそういう言うのだろう。
弊社は、1年数カ月前、コロナ禍に直撃され万事休す。しかし「もう駄目だと思った時が仕事の始まり」(京セラ創業者稲盛和夫氏言)を心の支えとして、創業以来最大の決断でイベント・ベビー事業からすっぱりと撤退し、福祉用具(ヘルスレント)事業の存続に全精力を集中した。そして紆余曲折を経て1年後、元気な弊社に変身できたことは、神がかりとしか思えない。
特にこの10年、問題が山積してきた。それを他人のせいにし現実を直視せず、経営塾等で問題を解決しようとして、墓穴を掘り続けてきた。5年前、まずは私が現場で汗をかくことと、営業に出て、業績が好転してきた。そんな中での「コロナ禍」で強い危機感を抱き、いち早く事業を再編できた。むしろコロナ禍が私の肩を押してくれた、と感謝しなければならない。
そして、再起の1年目、何としてもヘルスレント事業を成長軌道に載せなければならない。今期「10年ビジョン」(詳細は通信で語る機会を作ります)と言う壮大なビジョンを掲げるが、やることは目の前の仕事一つ一つを着実に積み上げ、一歩ずつ前進することだ。よく言えば「おおらか」悪く言えば「大雑把」の私、そこに「神は細部に宿る」と言う言葉が自然に湧き出した。
と言っても、今はまだ低いレベルの話である。毎日の仕事の段取りに抜けが出て、営業の途中で書類を忘れていたり、途中で書類が切れてしまって、また会社に戻るケースが多い。何度も同じミスを繰り返さないために、毎日の「ルーティンワーク一覧表」を作成中である。最初から完璧なものを望まずに、気づいたことから一つ一つ列挙している。
9月からは元社員が復帰する。初めてのケースだが、「以心伝心」思いが通じたと、感謝している。会社が安定化したこと、会社の目指す理念と社風に共感してくれたことが嬉しく、その期待にしっかりと応えて行かねばならない。まずは今期の目標を必ず達成し、来期はさらに増員し、じっくりと戦力化し、ご利用者様・ケアマネさんたちのお役に立てる組織を作り上げたい!
ダイアモンド桜島 by 野下一隆氏
雄ちゃんの今昔物語 VOL,83
おたふく先生(2010年10月リメイク版)
昭和31年4月、熊本市立本荘小学校に入学した。昭和22年~24年生まれはベビーブームで、1クラス40数名、1学年4クラスあった。街の中心街の熊本市立幼稚園から、白川を挟んだだけの小学校だが、本荘・春竹地区は気性の荒い下町で、子供たちももろにその影響を受け、口より先に手が出る小学校だった。おかげで、幼稚園では荒っぽかった私が普通で、すぐ馴染み、よく喧嘩もしたが、すぐ友達も出来て、楽しい小学校生活をスタートした。
担任のY先生は「おたふく先生」と呼ばれたベテランの女教師。気が強く、私もよく殴られた。けど何でも一生懸命指導してくれたので、怖かったけど、私も伸び伸びと楽しく一生懸命勉強した。おかげで(幼稚園までは「素行が荒い」と言う評価だった)成績もトップで学級委員長になり、よく代表で校内外で発表したり、通信簿も高評価を得た。
特にY先生は「書道」の先生で、熱心に指導されていたので、クラスで10人ぐらい残って、週何度か放課後に「書道」の指導を受けた。「雄ちゃんの今昔物語VOL,1」で紹介した“本荘小学の3羽ガラス” 税理士K君や当時県沖縄病院長M君はその時の仲間です。3年生の1学期で引越しするまで「書道」を学んだので、人並みにきれいな字を書くことが出来ているし、他の2人の書体を見ても私と似ているようで、これもY先生の影響だろうか。
当時、小学校低学年(~昭和33年)はまだ熊本も戦後の名残りが色濃く残って、街中に崩れたビルの残骸が残っていたり、バラックの市場があったりしていた。白川沿いの両岸にも、バラックの住居兼飲食店(?)が数100メートル並び、その中に3人ほど同級生が住んでいた。住居の土台は川から建ててあり、洪水でもなればすぐ崩壊しそうだった。何度か遊びに行ったが、便所の下は白川に垂れ流しで、衛生上もかなりやばかった。
そのうちの1人が、小学1年冬に病気で亡くなった。・・・そして2年に進級した。Y先生は「運動会」や「遠足」といったイベントばかりでなく、授業の合間を縫っては、校庭に同級生を集めて集合写真を撮ってくれた。当時はカメラを持ってる家庭は少なく、その集合写真が今でも我が家のアルバムを飾っている。
小3の夏、壺川小学校に転校(Y先生は両親に転校しないよう説得に来られたが)してから、母から「カメラ購入」の真実を知った。・・・Y先生が、亡くなった同級生の家にお悔やみに行った時、その子のお母さんから「息子の写真は無いのか」と懇願されたそうだ。確かに私も1年生の時のクラス写真は1枚もない。もちろんこの家庭でも、写真を撮ることはなかっただろう。息子が亡くなってから、その形見が、写真が全く無い思い、どんなに悲しいものだろうか。お母さんの気持ちは如何ばかりだったか?・・・それから、Y先生は当時高価だったカメラを購入し、暇を見ては私達をよく撮ってくれるようになったのです。
約15年前、沖縄でダスキンのオーナー会議があり、30年数年ぶりに、私達夫婦で医師M君夫婦と会った。その時に自宅に招待され、M君の作文集を何十枚も見せてくれた。私が「よくまとめてきれいに取ってるね」と関心したら、Y先生が転勤の時にくれた、と言うことだ。その日は遅くまで本荘小学の話で盛り上がり、私のことが書かれている箇所をコピーしてもらった。その時に、小学1年の冬に亡くなった同級生と写真のエピソードを話したら、彼は「初めて聞いた」と絶句していた。・・・今の時代、そんな熱い思いの先生は見られなくなった、これも時代が代わったと言えばそれまでだが。
本荘小学2年・お別れ遠足/昭和33年3月 万日山
私は、後列左から2人目
K君は私の向かって右隣、M君は後列左から8番目、Y先生は分かりますね!