元気通信#150「神の激励」

7月に入り、半年ぶりメインバンクである銀行の支店長に挨拶を兼ね、第1四半期の決算報告に行った。再建初年度の第1歩として「節目を大事にしたい」という思いだ。第一四半期で黒字と言うこともあったが、今はそれより、新しい「経営理念」をベースに、その実現に向けた「10年ビジョン」の最初のハードルである今期目標を何としても達成、と言う決意を表明する目的である。

その日、仕事が終わってから支店長にお礼状を書いた。その一節・・・コロナ禍で社会経済全体が未だ塗炭の苦しみを味わい、多くの企業が未だ先が見通せない中、なぜ弊社が大転換を図り、再スタート台に立ち、新しい未来を描いて邁進出来るのか?・・・「神がかり」と言えば笑われるかもしれないが、「私は生かされている」と、強く感じざるを得ない。(中略)「もう一度経営者としてのチャンスを与えるから、今度こそ社会のために貢献せよ!」という天の声ではないかと、思えてなりません。・・・・

あれっ、どこかで見たような文章だな?・・・後から気になって、これまでのお礼状や元気通信のPCファイルを探してみた。それは一昨年のまさに重大な決意をした月、令和元年11月号・元気通信(VOL,129)の最後の一節にあった。

稲盛和夫氏著「心」の一節・・・燃え盛るほどの強い意志を抱き、明るい希望を抱きながら、確実に歩んで行く。(中略)すると一気に視界が開けるように、問題が氷解することがある。これを「神のささやき」と呼ぶ。・・・この天からのご褒美を楽しみに、未来に希望を抱き、「必ず上手く行く」と明るい心で思い続け、日々仕事に真摯に取組み、さらに懸命に努力を重ねて行きたい!

「燃え盛るほどの強い意志を抱き」と言えるのか自信はないが、「会社存続と従業員雇用」に全力を集中し、「明るい希望を抱きながら」の気持ちを片時も忘れずに、素直に、逃げずに一歩一歩「確実に歩んで行く」ことに徹して来た。(中略)「すると一気に視界が開けるように、問題が氷解することがある。これを「神のささやき」と呼ぶ。・・・昨年後半の体験は終わってみると、まさに問題が氷解するかの如く、見事な「神のささやき」で、私の人生では初めての体験だった。

今期提唱する「10年ビジョン」は、弊社がゼロから再出発し、従業員の物心両面の幸福と強靭な会社を創出し、鹿児島の発展に貢献するまでの「中堅企業への実現の“壮大な道標″」です。創業20年にして初めて具体的な道標を描くことができるのも「動機善なりや、私心なかりしか」に照ら合わした結果です。これからも幾多の厳しい天の声も聞かれるでしょう。その時は「これは神の激励です!」と明るく受け止め、謙虚さと感謝の気持ちを忘れず、(72歳にして)さらに成長してまいります!


夕刻、甲突川から桜島 2021年5月

雄ちゃんの今昔物語 VOL,84

3丁目の夕日(昭和33~34年)小学3~4年

 壷川小学校に3年生の2学期に転校して、カルチャーショックを受けた。壷川小学校では「成績+クラス1の人気者」が投票で選ばれ、学級委員に選ばれ、学級を運営していた。民主主義の投票で選ばれた学級委員が「首相」みたいなものであり、学級の代表ではあったが、決して「将軍」のような権力者ではなかった。初めはそのことが理解できず、そんな雰囲気にも慣れずに、私なりに力を誇示しようとしたが、「多勢に無勢」負けを認めなければならなかった。家に帰っては母に思いの丈をぶつけ、泣きじゃくっていた。9月までは屈辱の日々で、思い出すのは「あの楽しかった本荘小学校」のこと、仲良しのM君、K君たちと習字・遊んだりしたことばかりだった。

 ところが「人間は環境の動物」、秋も深まり運動会や旅行などのイベントも終えたころには、次第にクラスにも溶け込み、雰囲気もつかめるようになった。私の模範とする友達の存在が現れた。彼の名前は「Nちゃん」、当時は氏名の頭文字に「ちゃん」をつけて呼ぶことが普通で、私だったら「小林君」でも「雄ちゃん」でもなく「コバちゃん」と呼ばれた。Nちゃんは、いつもニコニコしていて、誰からでも好かれ、いつも成績はトップクラス。スポーツも得意で、女子とも仲良く、「まりつき」をさせたら、女子よりも上手く、クラス1の人気者だった。「郷に入っては郷に従え」、私も「まりつき」を覚え、結構上手くなった。封建主義の本荘小学では考えられない光景だった。

 冬に入り寒くなったころは、我が家は通学には数分の近い所に住んでいたが、毎朝、わざわざ遠くに住む「Nちゃん」の家に迎えに行き、一緒に通学した。それくらい私にとっては「大きな存在」だったのだろう。我が家でも抜群の人気で、家族全員が「Nちゃんファン」でした。当時高校生だった姉の日記にも、「弟も、弟の友達(Nちゃん)も、天真爛漫で羨ましい」と書いてあったのを思い出す。そのくらいどこでも、遊んだり、珠算教室に通ったりした。珠算もかなり早くできるようになったのだが、「Nちゃん」にはタッチの差でいつも負けていた。

 小学4年になった時、前期の学級委員は男子はダントツ1位で「Nちゃん」だった。もちろん私も投票した。後期は再選なしの規定で、私と最後まで争ったのは、成績がよく仲良しの「Tちゃん」に、一票差で勝ち、私が後期の学級委員になった。私は成績やスポーツはトップだったが、何でもはっきり言う性格で敵も多かったので、前期ダントツ1位の「Nちゃん」みたいには最後までなれなかった。

 4年の学級お別れ会に、余興をすることになり私は一計を案じた。クラスの3羽ガラスである「Nちゃん」「Tちゃん」と私が3人で、当時TVの人気生番組「お笑い3人組」の主題歌を歌うと決め、数日前から「Nちゃん」の家で練習した。歌と振り付けは私が指導した。もちろんカラオケなんかなく、見よう見まねで踊り歌うだけだったが、本番はばっちり決まった。驚かれたのは、ベテランで尊敬する担任のM先生。すごく喜んでくれた。

 その後3人は5年になるとクラスも分かれ、時々は会っていたが、中学校はばらばらになり、次第に遠い存在になってしまった。高校2年生の時「Tちゃん」とは偶然にも一緒のクラスになったが、普通の学友で、あまり付き合いもなく、お互いそのままです。

 ただ「Nちゃん」とは中学以来全く会ってない。 12年前の夏、還暦を祝う「壷川小学校・37年卒」の同窓会があり、5・6年担当のF先生からの連絡もあり、初めて同窓会に出席した。ところが中学校が地域外に行って違ったこともあるせいか、8割強の人が知らない人ばかりで、これは私には衝撃だった。

 その中に、あの会いたかった「Nちゃん」がいた。卒業時のクラスごとの席だったり、私が「ELVIS JOHN 小林」ショーを演じたりて多忙で、ほんの数分だけの会話で、その後も全く会っていない。

 50~60歳代前半にかけては、小学校・中学校・高校の同窓会に良く顔を出したが、私みたいに転校したり寄留したりしていると、思い出が断片的で私をはっきりと覚えていない人の方が多い。今は懐古主義はこの「今昔物語」だけにしている今日この頃である。
 この転校や、中学校を寄留した時の環境変化の苦労を子供たちには味合わせたくなかった。子供たちには幼稚園・小学・中学を通して、同じ校区内だった。今でも同級生だけでなく、先輩後輩たちまで知っていることを聞くと、彼らの人生に少しだけ良いことができた、と親バカとしてと思う。


S34年11月 壷川小学4年・八代旅行
後列真中より向かって右の笑顔が私