元気通信#151「10年ビジョン」

今夏は、コロナの感染拡大第5波の中のオリンピックパラリンピック開催・10日以上の長雨と、コロナ禍2年目も異常な中で秋を迎えようとしている。こんな異常な状態でも、私たちは生き残らなければならない.。・・・弊社はコロナ禍でイベント売上9割減に直面し、「非常時でも生き残れる会社を作る」必要性を今回は痛感させられた。重々分かっていたつもりでも、これまで「自社には関係ない」「対岸の火事」と高を括っていた自分がその場面に直面し、頭が真っ白になってしまった。

幸いにも弊社は福祉用具のヘルスレント事業に集中する道を選択して生き残ったが、イベント中心の「レントオール」は、全国でも休業に追い込まれた店が増えている。国のセーフティーネット(助成金等)が無くなれば、飲食業を中心に休廃業の会社がもっと増えるのではと危惧する。

コロナ禍を経験して得た教訓は、①どんな厳しい環境でも生き残れる強靭な会社を作ること。②そのためには先ず経営者が率先して現場に出て働き、利益を捻出する覚悟を持つこと。③しかし経営者がやることは限界があり、従業員たちと情報や思い(価値観)を共有し、ベクトルを合わせるリーダーシップを持ち、チームワークで立ち向かう組織力を作り上げることが必要だ。

ただ「頑張れ!頑張れ!」とだけ言っても人は頑張れない。「何のために頑張るのか?」従業員全員に指し示すものが「経営理念」であり、そのためのプロセス(道標)が「10年ビジョン」である。「10年ビジョン」の骨子は「どんな厳しい環境でも生き残れる強靭な会社を作ること」だ。もっと具体的に言えば、「中小零細企業」で再スタートした弊社を10年後「鹿児島の中堅企業に育て上げ、従業員も将来も安心して仕事に励み、鹿児島の介護福祉事業を通して経済・雇用等で貢献していく」企業に脱皮することだ。

この10年、人材育成に失敗した経験を踏まえ、「人材の育成」こそが「10年ビジョン」の成否の要だと決意する。「経営者の姿勢と覚悟」を示し「将来に対する希望」を感じさせる「魅力ある企業」に一つ一つ作り上げなければならない。これが私の「使命」である。今後この「使命」に基づき、私は命がけで取り組むことが「終活」の一つだ。この目標が「経営理念」でありプロセス(道標)が「10年ビジョン」である。基本は「損得でなく善悪で行動する」ことです。

「10年ビジョン」のスタートの21期は特に重要です。早や4カ月余が過ぎた。譲渡~移転等で、予想通り経費節減には成功できたが、最も大事な売上がまだ一歩伸びきれない。「量の増大・質の充実」も徐々に定着して来ているが、未だマンパワー不足は否めなかった。

早速4月から積極的に求人活動を開始した。一般求人媒体だけでなく、周囲360度見まわして広く「これは!」と思う人にはプッシュした。「以心伝心」と言うべきだろうか?・・・最も戻ってきて欲しい元社員から「復社」の相談があり、一発で「快諾!」・・・9月から晴れて出社していただくことになった。きっと「10年ビジョン」の実現に向けて、共に活躍してくれるでしょう!


夕刻、甲突川から中央駅 2021年7月

雄ちゃんの今昔物語 VOL,85

「タシばあちゃん」と「小林家」(2011年5月のリメイク版)

 父方の祖母タシばあちゃんは昭和42年9月、私の高校3年の夏の終り、熊本の私の実家で永眠した。54年前、半世紀以上前になる。老衰で満92歳と言う長寿だった。祖父作助じいちゃん(昭和13年亡・72歳)との間には、3男3女を4~5年ごとに交互に産み分け、父はその5番目の3男坊だった。

 私と祖母との初めての出会いは4歳ごろ、当時住いの本荘町隣・春竹町に住む叔母(父の妹)の家に遊びに行くと居たので、従兄弟のHちゃんのおばあさん、と思っていた。同じ歳のHちゃんは私と違い優しい性格なので、とても可愛がられていた。逆に私はよく騒いでいたのでよく怒られていた。当時から祖母は円背で、背中が直角に曲がっていて、父や伯父が長身だったので、印象は「小さいばあちゃん」だった。

 次に会ったのは小学2年の冬、久留米に住んでいた伯父(父の長兄)の家に遊びに行った時に居た。当時から耳が遠く、大声で話さなければならなかったのを記憶している。

 小学4年の時、父の兄弟が揃って我が家に来て、重要な話をしていたことがあり、まもなくしてタシばあちゃんが我が家の住人になった。その時初めて「私のばあちゃん」であることを知って驚いた。

 私はよく風邪をひいて学校を休んでいたが、それまでは病院で注射をして、布団に入り一人でよく本を読んでいた。ところがばあちゃんが来てからは、布団のそばに座り(夏だったのでしょう)ウチワで仰いでくれて、時々話しかけてくれるのだが、なんせ耳が遠いものだから、大声を出さなくてはならず、一人にしてくれた方が良いのに、と思ったものです。

 働き者で、早くから庭の草取りをして、昼間も部屋をよく掃除していた。祖母専用の火鉢と座布団があり、そこが祖母の指定席だった。冬になると、私が電灯を点けると、早速障子を閉めて回り「寒か寒か」と言っていた。それまでは部屋が暗くなるから、我慢していたんですね。気が利かずにゴメン。

 テレビが我が家に入ると、一緒に相撲の中継を見ていて「寒かろうて!」と言ったり、料理番組で時間の都合であらかじめ出来たものを調理すると「あっじゃ早すぎる、生煮えたい。」と言って、その都度私が大声で何度も説明していたものです。

 よく「早く迎えに来てほしか」と言っていて、当時「死」が非常に怖かった私には、全く理解できなかった。また、父と祖母が一言も言葉を交わさず、よくしゃべっていた私と母の親子関係からは想像できず、不思議だった。しかし、その訳を父から聞くのが怖いような・・・・結局そのままで、謎は現在も解けていない。

 祖母は私が中学2年ぐらいの時、また久留米の伯父宅の移ったが、高校2年の時に再び熊本の我が家に帰ってきたときには、歩けなくなっていた。今みたいに老人施設や介護ベッドがあるわけでもなく、布団に寝たっきりでしたが、気丈な祖母はトイレには這って行っていた。(今なら歩行器等が利用できたのに)

 気分の良い時は、私のギターを三味線のように弾いてみて「やっぱ違う」と笑ったり、じいちゃん(作助10歳?)が子供の時に「西南戦争」があり、実家の御船(熊本市郊外)から熊本城が炎上するのを見た、と言う話を聞いて、歴史上の出来事がタイムスリップして「その時、薩軍西郷隆盛はどうしていたんだろう?」なんて想像して楽しかった。

 毎日食事して、寝たきりの繰り返しの中、日に日に弱る祖母。週に1、2回おばさん達が来て、母と3人がかりで風呂に入れたりしていて、介護は大変だなあとつくづくと思った。・・・そして私が高校3年の夏(当時はもちろんエアコンは無く)、猛暑で体力を消耗したのでしょう。食が細くなり、9月初め、夕方私が様子を見に行くと反応がなく、すぐに病院に連絡するが、既に亡くなっていた。

 火葬の時、火葬場の人が「こん人は老衰ですね。骨の色が真っ白だもん。」と言っていたのが印象的だった。それから9年後、亡き父の火葬では、腕や足の骨が点滴注射のせいで紫だったのと好対照だった。

 さて全国で最多の姓「ベスト10」に入っている「小林」姓。昔、伯父から「小林家の祖先は御船の“丹生宮”の神主さんだった」と聞いたことがある。さらに「小林さんの本」と言う本を読んだら、古くは出雲の神官「大神(おおみわ)氏」が大和に行って大和川上の丹生神社の神官として、全国に広がった、と言う説を知り、私の先祖は「神官」であった、と半ば確信した。12年前、御船町となりの城南町に「丹生宮」という地名を知り、熊本に帰った時に寄ってみた。田んぼと集落ばかりで、残念ながら神社の跡はなかった。

 祖母は人吉の材木商の娘で、祖父が熊本県庁の職員で、人吉に赴任した時に結婚したそうです。二人の出会いはどうだったんだろう。今は知る由もないが、父が生まれ、そして私が生まれ、こうやって元気に社会で頑張って行ける、と思えば祖父母に感謝せずには居られません。父の兄弟も既に全員他界。・・・祖母には生前もっと優しくしてあげれば良かった、伯父伯母にはもっと先祖の話を聞いておけば良かった、亡き祖父と同じ年になり、亡き父より10歳も老け、72歳になった「孫のはしくれ」の思いはますます募るばかりです。


在りし日のタシばあちゃん
小林家のDNAは「顔が長い」のだ!