元気通信#133 「新型コロナウィルス」に学ぶ
2月に入り、「新型コロナウィルス」旋風が日本中どころか、世界中を震撼させている。私の人生70年でも、初めての経験で、恐らく皆様同様の思いで、先の見えないトンネルに入って、光が見えない状況で不安に感じておられるのではないでしょうか。弊社のレントオールも、2月半ば以降のイベントがことごとく中止となり、3月のイベントも全滅で「茫然自失」。異常事態に陥っている。
9年前の東日本大震災を知って驚愕し、他岸の火事とせず、教訓として、経営者として「不測の状態に対する備える」を怠っていてはならない。そのためには、会社の体力をつける(利益体質にする)ことが第1である、と誓っていたが・・やっていなかったことを猛省する。
しかしこうなった以上、直撃する課題には逃げずに、今やれることに真摯に向き合い果敢に挑戦し「会社の存続」と「従業員の雇用」のために全力投球することを、肝に銘じたい。
それにしてもこれまでの経営者としての甘さを痛感する。この数年は、ピンチをチャンスと捉え、「現場に答あり」と自ら現場に出て活動し、それなりの答を導き出した。それは「先利後資」つまり先ず利益を捻出し、出した利益を元手に必要な投資をする、と言うことだ。
さらに、この1年で得られた新たな教訓がある。「弱にメス入れ、強に転換」・・・それは「弱い部門」のマイナスを「強い部門」で補填する考えは間違いである、と言うことだ。常に危機感を持ち、「弱い部門」に真正面からメスを入れ、早期に改革して短期間で利益体質にし、併せて「強い部門」もさらに強くすると言う覚悟を持ち、経営者は365日率先垂範して働かなければならない。
「感性的な悩みをしない」・・・京セラ創業者稲盛和夫氏の名言。起きてしまったことを思い悩まず、反省をしたら、後は課題を真正面から受け止め「自分の成長の糧にする」と明るく受け止め、やるべこことを明確にし、さらに精進に努めることです。まさに「新型コロナウィルス」は不可抗力とはいえ、私たちにとって大問題です。こんなときこそ「茫然自失」から立ち上がり、まず現実を受け入れて、「今自分に出来ることは何か」に向き合い明確にし、早期に実行に移すことです。昔は艱難辛苦にすぐくよくよしていた私ですが、最近は少しは胆力が備わり、肚が座ってきました。
「新型コロナウィルス」の一番怖いところは、トンネルの先が見えないこと、この影響が日本中に長期に及び、経済全体を悪化させ、私たちにもっと降りかかってくるかもしれないこと等々・・・・考え出したら悩みは尽きないが、そこは「神のみぞ知る、神の領域」である。
「新型コロナウィルス」は21世紀の人類全体に突き付けられた大きな警鐘であり、これから2度3度と起こる問題であり、人類全体が乗り越えるべき大きなテーマかもしれない。そして私たちにも突き付けられた「人としてどう生きるか、自利から利他」への大転換点かもしれない。
2020年(令和2年)2月
維新ふるさとの道 In 甲突川河畔
雄ちゃんの今昔物語 VOL,67
神が降りた!…人生初の試練から抜け出た瞬間 (2015年11月リメイク版)
私の70年間の人生で初めての大きな試練は、「高校入学」から始まった。
自慢になってしまうが、私は小学・中学9年間はクラスでトップクラスの成績だった。私の勉強法は「知識を楽しく理解しながら学ぶ」と言うのもので、いわゆる「がり勉」ではなく、「熊本市内中学マラソン」に選抜されたり、人前で歌ったりのパフォーマンスが好きな、明るいキャラの学生だった。
入学したK高校は、熊本県一の受験校で、東大に数十人合格していた。入学直後の試験で、どう間違ったのか、私は高1全体・600人中で32番、クラスでも2番(1番と3番は、後に東大に合格)と言う好成績、しかも4月末開催の校内マラソンでも高1で2位と、俄然目立つ存在になった。
その結果に最も驚いたのは、私自身と両親である。勉強のやり方次第では「もしかしたら東大に」と脳裏に浮かんだ私たちを、誰も咎めることは出来ないだろう。
父なりにいろいろ調べたのだろう。親戚でも特に成績優秀だった義理の叔父が旧制中学時に、休憩時間にも通学時にも、寸暇を惜しんで教科書を「一言一句」暗記した、と父が熱く語り、私も素直に「台本を覚えるように」寸暇を惜しんで「一言一句」暗記をやってみた。
しかし何回読んでも暗記出来ずに、なかなか先に進めなかった。次から次に進む授業に追いつかぬまま、6月の中間テストに突入し、無惨な結果(全体で350番)に終わってしまった。
ここで自分のやり方を見直せばよかったのだが、その時は「やっていることをもっと徹底する」結論を出し、「夏休み補講」も聞き漏らすまいと、一番前で「一言一句」ノートした。しかし暗記が出来ず、さらに中途半端なまま、全く消化不良の状態で夏休みを終了。9月の実力テストでは400番代に落ち、どうしたらよいのか分からず自信喪失し、机に座っても全く勉強が手につかなくなってしまった。そして1年生最後のテストでは560番台(後ろから数えて32番?)に降下。あの明るかったキャラも影を潜め、「劣等生」として冷たい視線を感じ、高校が嫌でたまらなかった。
父はそんな私に「大学は地元のS大か、高卒就職でも良か」と、父の慰めが「親にも見放された」と受止め、絶望する私はまさしく病的゙だった。陸上部も退部、通学するのがやっと、家でふさぎ込む日々は今でいう「ニート」状態だった。一度だけ心配する母に心情を吐露した時、何と母は私以上に落ち込んでしまい「相談する相手を間違った」と苦笑した(今は笑い話)。
しかし高2のクラス替えで、クラスメイトが成績に関係なく接してくれる雰囲気に救われた。成績は相変わらず500番代の超低空飛行だったが、高校の催しがあればクラスでまず最初に私の名が挙がり、クラス一のムードメーカーに復活した。
2学期に入り、私は運動会の応援団に選ばれ、連日連夜の特訓、当日も早朝から練習そして本番、楽しい団体生活を味わった。そして翌月、東京修学旅行では級友とは徹夜でバカ話に明け暮れ、バスの中ではマイクを独占し「英仏伊3か国語の、洋楽ワンマンショー、どこの観光地に行ったか全く覚えてない。1週間があっという間に過ぎてしまった。あまりの楽しさに熊本帰りの夜行列車の中で「このまま幸せの中で、脱線転覆して死んでも構わない」と真剣に思った。
その時「神が降りた」…「これまでの1年半はきっぱり忘れよう!」そして「明日からは、昔のように楽しく学び、誰にも負けない努力をしよう!」・・・との思いが沸々と湧いてきた。
それから世界史・有機化学・数学微積分・日本史等々、一つずつ進めて行った。高校教材は8割方終わっていたので、時すでに遅しの感はあったが、全く気にせずに「目の前の授業に全力投球」して一歩一歩実力をつけて行った。今は懐かしい青春の一コマです!
尊敬する経営者H氏のブログで「人生で2回、神が降りた」と言う言葉に共感。私の「神が降りた」瞬間はここだ!目に見えない何かが私を突き動かしてくれた、今は感謝だ。
K高校2年の3月の最後の思い出に
熊本市郊外・百花園に行った(後列左から4番目が私)