元気通信#139 ビジョン実現の前に強靭な会社づくりを
今夏は長梅雨から始まり、明けると連日の猛暑の夏、9月には超大型台風、と自然の脅威が矢継ぎ早に襲った夏。地球温暖化の影響だろうか?そして一貫して続くコロナ禍は、秋からのインフルエンザも含めた政策も言われ始め、コロナ禍第3波?・・・今年はコロナ禍で始まり、途中から「WITHコロナ」と言われ始め、コロナと共存する新しい時代が始まる、と思った方が良い。弊社もイベント・ベビーのレントオール事業を辞め、福祉用具のヘルスレント事業(以下、HR)1本に絞ったことは英断だと思いたい。会社の業績が激変した時には、変わらないことが最大のリスクだと思うべきだ。
譲渡から各種契約まで上手くことが運んだことを、まず関係者と天に感謝したい。しかしこれからが本番だ!移転先探しと金融機関支援依頼、そしてHRの業績を上げ、さらに経費の見直しを徹底し、強靭な会社を作ること。京セラ創業者「稲盛和夫氏」の経営12ヶ条・第5条に「売上を最大に、経費を最小に」が掲げてあるが、今こそこの実践に尽きる。まず私が率先して働き、皆に思いを伝え(共有し)、皆でベクトルを合わせ、知恵を絞り汗をかき、その結果利益を産み、その積み重ねが強靭な会社を作る。お客様との喜びの取引から生まれた利益をまずしっかり蓄積(内部留保)することだ。
会社創業20年、これまで大きなビジョンを掲げて、その都度挫折を繰り返して来た。その原因は、この「ビジョンの実現」を達成するには「強靭な会社」がなければならない、と言う当たり前のことすら理解していなかった私です。こういうのを熊本弁で「カン(感or勘)無し」と言う。
富士登山するには、いろんな登山用品・備品を準備し、何度も本番に備え、強靭な肉体づくりと経験を積まなければならない。それをTシャツ、スニーカー等の軽装で城山散歩道を登る感覚で臨むから、ちょっとした障害に合っては慌てふためき、揚げ句にはすぐ諦めてしまう。私の経営者としての20年そうだったと反省します。高い目標を掲げるなら「強靭な会社」(自己資本比率30%以上)づくりが絶対条件です。
71歳、私はコロナ禍を「人生のラストチャンス」と捉え、元気に(少なくとも)後10年は設計プランを立てたい。
まずは75歳までに強靭な会社に再建し、その上で①従業員の物心両面の幸福実現、②介護福祉業界を通して鹿児島の発展に貢献すること。そうと決意すれば、なおさら老け込んではいられない。「元気で長生き」を心して、日々精進してまいります!
2020年8月16日・祗園之洲公園
御門より西田橋を臨む
雄ちゃんの今昔物語 VOL,73
続々・私の「3丁目の夕日」・・・「チャンバラ映画」(平成22年リメイク版)
私がものごころがついた昭和20年代後半から30年代前半までは「映画」の全盛時代だった。私が知ってるだけでも市内中心部にある映画会社ごとの「封切り映画館」だけでも7~8軒、その他に安い料金で古い映画を上映する映画館も市内中心のちょっとはずれに結構多く、「映画」は庶民の娯楽の殿堂だった。
その中で私の最も好きな映画は「東映のチャンバラ映画」だった。当時の人気スターは、いわずと知れた「中村錦之介」「東千代之介」を筆頭に、ベテラン「大友柳太郎」「市川歌右衛門」や(今は大ベテラン)若手の「里見浩太郎」でした。
日活映画の「石原裕次郎」を中心にした映画も有名で知っていたが、父の好みが「東映のチャンバラ映画」だったから、自然に私もそうなってしまったのでしょう。
父が毎日仕事から帰るのは遅かったようだが、早く帰ってくる時もあったのでしょう。「私だけ」よく映画に連れて行ってくれた。6歳児までは子供は無料だったからで、当時の幼児だけの特権でした。勧善懲悪映画が主流で、私ら幼児には非常に分かりやすいものだった。館内全員が一丸になって「悪を倒す正義の味方」を応援していた。
悪人に痛めつけられている庶民が、悪人につかまってこのままじゃ殺されてしまう、と言うまさに“絶対絶命”には掛け声が!「早よ来んと、間に合わんたい!」。そしてとうとう正義の主人公が馬に乗って駆け付ける、まさにその時、全員で大きな拍手と大歓声。ばったばったと悪人が殺され、最後は「正義が勝つ」。「いよーっ!日本一!」館内が正義の主人公と一体化された瞬間でした。終わって帰る時には、私はもうすっかり主人公になりきってしまい、歩き方まで胸を張っていた。「自分も大きくなったら映画俳優になって、チャンバラ映画の主人公になる」と心に決めていた。
小学1年の時も「幼稚園児」として父と映画に行っていたが、背が高かった私は小学2年になるとさすがに受付のおっさんの疑いの眼が気になり始め、「チャンバラ映画」の世界からしだいに遠ざかり、夢も時代劇のスターからマンガやテレビの人気者に移ってしまった。
当時、昭和32~33年は、熊本中心部の街の電気屋さんの軒先に「テレビ」が出現し始めた。相撲、プロレス、野球の実況中継では、歩道にあふれんばかり人だかりができ、大人の垣根に潜り込み、私はスポーツのルールも分からぬまま、歓声をあげていた。昭和33年春の選抜甲子園で、準決勝で同郷の熊本工業(兄の高校だったので私は熊工を応援)を破った済々黌高校が全国優勝した時は、それはもう電気屋さんの周りは大観衆で大変な状態だったのを覚えています。
それから50数年経った、平成22年。この数年、子供たちの結婚、母の死、とたて続き、今年5月で母の3回忌も終え、やっと一区切りついた気がする。振り返るに15年前、当時77歳になり、熊本で一人暮らしに不安を感じるようになった母と一緒に暮らす、ということで4DKのマンションを借り、当時長男大学生、次男高校生、と狭いながらのスタートだった。・・・・あれから15年、私たち夫婦だけになり住みにくくなってきた。そこで思いきって結婚以来初めての贅沢で、この7月にマンションを購入。一生懸命に働いてきた私たちへのご褒美だ、と思い切りました。これから人生の集大成として、老後をあとひと踏ん張り羽ばたき「夢」を実現したい、我が家はほっとくつろげる安らぎと明日への英気を養う場だ、と思っています。
そんな贅沢の一つとして、地デジ対応の「プラズマテレビ」を購入した。迫力の大画面、これからの休日には2人の「映画鑑賞会」を開きたい、これまでに熱くなったエンターティメントやミュージカル、ロックライブ、ラブロマンス、スピルバーグ等々の洋画や、世界の旅、日本史、地球・生物46億年の謎(こういうの結構好きなんです)・・・・しかし数十年忘れかけていた「チャンバラ映画」もその対象に入れなければなりませんね。
昭和31年4月
本荘小学校入学(自宅隣の鉄道学校跡)