元気通信#143 2021年を迎えて!

 コロナで始まった2020年も、当初の短期予想を外れ、第1波・第2波・そして11月からの第3波と大きさを増すばかりの日本、2021年に入っても大きな影響を与えることは間違いなさそうだ。これからは中小企業経営者は、コロナ禍の中でも早く手を打ち、激変する環境に逆らわず「会社を変革するチャンスだ」と奮い立ち、生き残らねばならぬ社会的責任がある。

 弊社も新栄町に社屋移転して早や1ケ月余、12月に入り(11月移転で訪問活動ができなかった分を取り戻すべく)居宅介護支援事業所を再び活発に回り始めた。その間、金融機関の他、これまでお世話になったところ、これからお世話になるところに挨拶に行き、いよいよ年明けからは念願の営業活動に専念できると思うとワクワクしてくる。コロナ禍の中でも、私個人目標は月200件訪問(1居宅に2回以上訪問)、会社の目標「3か月点検100%以上」「月居宅訪問400件以上」を必達したい!

 倉庫も整然として、一目で見やすく管理しやすくなった。事務所も(今のところ?)スッキリと片付いている。これを維持するように日々整理整頓を心掛けたい。「社屋を見れば、会社の実情が分かる」というが、それは真実であり、移転をきっかけにこれからは「すっきりとした事務所・倉庫」を維持していく覚悟である。営業だけでなく、管理面でも率先垂範を心掛けたい。

 2021年もコロナ禍が続く中、2025年問題、さらにその先の2040年問題に向け、少子高齢者社会がピークを迎え、今まで経験したことのない、大きな波が押し寄せてくる。迎え撃つ会社も、その変化に耐え得る「強靭な会社」に変身しなければならない。弊社が勝ち残るためには、まず私が率先して「誰にも負けない努力」をしたい!併せて強靭な会社にするためにも、「求人教育」を積極的に進め、組織の強化=会社の体力増強に努め、10年後(それまでは生きる!)経営理念「介護福祉事業を通して鹿児島の発展に貢献する」を必ず実現する!

 ところで、12月25日に「2021年介護保険改定」の概要を知り、「財務省主張の手すり・歩行器等を販売」も見送りになったばかりでなく、さらに私たち「福祉用具専門相談員」の専門性評価の場面が増え、利用者様の自立支援・重度化防止のため、介護の現場でさらに広くお役立ちできる機会も増え、私にとって最高の「クリスマスプレゼント」になった。弊社でも介護保険改定後に向け早急に態勢を整え、利用者様・ケアマネさんの期待にしっかり応えて行きたい。

 2021年介護保険改定の概要は「シルバー産業新聞1月号」にも掲載されると思うので、いつもの「おすすめ記事」等で詳細にご案内します。楽しみにお待ちください!


新栄町から見る対岸(宇宿)の夜景
2020年12月

雄ちゃんの今昔物語 VOL,77

社会人1年生(2013年4月のリメイク版)

 昨年は「コロナ禍」で日本中どころか全世界が席巻された歴史に残る1年となった。「まさか」という事態に陥った方も多くいられたのではないでしょうか?

 私も「まさか」の直撃を受けた一人だ。すべてのイベントの予約が蒸発してゼロになることは天変地異(台風・地震等)により一時的には打撃を受けても、コロナ禍のような「長期」に及ぶことはなかった。おそらくこういうリスクまで考えた人は皆無だろう。

 そんな中、大打撃を受けた「レントオール事業」から撤退し、福祉用具の「ヘルスレント事業」に集中する結論を出し、再スタートできた弊社は本当に運がよかったと振り返るとともに、どんなときにも明朗・謙虚・利他の心で、損得でなく善悪で動けば、良い方とのご縁もあり、活路が開けることを感じた1年だった。またその中で一歩成長できた私を感じる。・・・しかしこれまでの40数年は「ひ弱な男の歴史」の連続だった。特に社会人1年生になったころはひどいものだった。
 
 当時(50年前)の就職戦線は「第1次石油ショック」が終わった時ではあったが、高度成長時代末期で、まだ就職戦線は「売り手市場」であり、留年生の私でも「一部上場会社」に“3社”も合格していたので、就職して働くことを甘く考えていた。

 当時からミーハーな私は、当時人気TVドラマ「どてらい奴」の主人公の社長である“Y社”が第一志望だった。そのことを付き合っていた彼女(現在の妻)に話していたら、たまたま彼女の大阪の叔父から「喫茶店を開く」話があり「先に行って雄ちゃんを待ってる!」とあっという間に大阪・堺に行ってしまったので、男として「大阪に行って、Y社に入社しなくては!」と腹をくくる羽目になってしまった。後で後悔することになるとはつゆ知らず・・・。
 
 さて、そのY社、今では考えられない「超体育会系」の機械器具関係の商社(当時は東京や関西に行った友人たちが“総合商社”に就職していたので、“商社”にあこがれていた)だった。

 大学最後の冬休み、「会社研修」を兼ね博多駅近くのY社福岡支店に1週間アルバイトをして驚いた。機械器具工具の倉庫には数10kgの商品が山積みされ、それを上から投げるのを受けとめなければ、容赦なしの罵声を浴び、ホウキの枝で尻を叩かれると言う、今だったら「労働問題」で訴えられそうな、「しごき」が日常的な「本当にこれで一部上場?」と言う会社だった。

 恐らく私だけだったら、第2志望の、東京中心に駅前店舗展開している“M社”に就職しただろうが、「大阪で待っている彼女を裏切る訳にはいかない!」とやっとの思いで留まった。そういう意味では、当時彼女がいなければ私の人生は大きく変わっていただろう。

 その後、Y社新入社員研修2週間を経て、東大阪市の商品管理部に全員配属。毎日のしごきに耐えながら苦しい日々を過ごす。「こんなことで根を上げてどうする。辞めるのは何かをつかんでから!」と、男としての意地で苦しい4~5月を乗り越えた。それでも週1回合える彼女の存在はひときわ大きかった。
 また、5月のGWにあった社内運動会の長距離走で、並居るツワモノたちの面々の中で断トツの「優勝」、商品管理部に歓喜の胴上げで迎えられた。「商品管理部に“小林”あり」と思われたのは、その後先輩・同僚たちに一目置かれる、と言う思わぬ副産物となり、その後彼女の店にもよく大挙して来てくれた。体育会系のノリの良さだろう。

 約1年で沖縄に転勤。その後父の勧めで福岡に営業所がある紙メーカーA社に転職したが、その後も「しごきに耐えた」と言う経験は、いざという時に大きな力になり、どんな危機にも「死にはしない!」と開き直れる、私のタフさの原点となった。
 あれから約50年、歴史上戦争以外には考えられない「コロナ禍」は、今年もどんな茨の道が待っているかもしれない。しかし「どんな苦難にも明るく正面から取り組む」覚悟を決めていきたい。・・・今年が皆様にとって良き年でありますように!


1974年 大阪府堺市・仁徳天皇陵前
結婚前の妻と