元気通信#156「3・大作戦」

 正月の恒例行事「箱根駅伝」は王者「青山学院大学」が復活。2位の順天堂大学に10分以上の大差をつけて優勝した。その青学の原監督が命名した「パワフル大作戦」、その名の通りの圧勝だった。原監督はこれまでもよく箱根駅伝の前に「〇〇大作戦」と命名し、まず自らを明るく鼓舞し、まわりにも話題を振りまく、私の大好きなリーダーだ。

「潜在意識に透徹する願望」とは何かを悩み続ける1月半ば、朝目覚めてフッと頭に浮かんだ言葉が「オレンジ大作戦」。早速机のPCで「オレンジ大作戦」の中身をまとめた。居宅・包括様を毎月3回以上訪問を目標にしているが、2回未満は緑色、2回は黄色、3回以上はオレンジ色と決め、いかにオレンジ一色に塗りつぶすか、ゲーム感覚で楽しく挑戦しよう!と思った。

昨年までは2回訪問を基準に、新聞、通信、チラシを配布していたが、昨秋の増員を機に、今年は3回以上訪問にパワーアップして、さらにケアマネさんたちに接し、お役立ち情報をお届けしよう、と張り切っている。ただ、今年に入りコロナ禍がオミクロン株で急拡大している中、対面訪問だけでなく、電話を有効活用した郵送やポスト投函も訪問の扱いにしたい。

「オレンジ大作戦」が”量”の大作戦ならば、「源流大作戦」と「絆大作戦」は”質”の大作戦です。前者「源流大作戦」とは、川の源流をイメージして、介護の源流に力を入れる、と言う作戦です。具体的には地域包括支援センター様の専属担当を決め、一元管理する。他にも退院のお手伝いをする地域連携室様も源流となるし、広く言えば、住宅改修もその中に含まれるかもしれない。要は「介護保険」が始まる高齢者から、お手伝いできる環境を整えて行こうと言う作戦です。

コロナ禍が始まり2年、直接ケアマネさんの皆さんとお会いする機会が減った。以前のように楽しく談笑する機会が減っても、少しでもケアマネさんたちとの絆を大切に残したい、と言う思いが後者「絆大作戦」だ。訪問した夜にFAXで「お礼状」を送る。窓口に立った人だけでなく、必ずケアマネさん全員の名前を書いて思い出すよう心がけている。また月毎に「ご紹介お礼状」や「お亡くなりお礼状」も節目として続けて行きたい。さらに10数年続けている「元気通信」「雄ちゃんの今昔物語」「新聞おすすめ記事」「〇月の俳句」も絆を継続する大切な役割があり、続けて行きます。

これまで取り組んできたこと、これから取り組むこと、すべてケアマネさんやご利用者様にお役立ちし、喜んでいただくことは何か?を基本に創意工夫を重ねて、3大作戦を実行し継続して行きます。今年で73歳になる私の人生の集大成として、一生涯続けてまいります。


2022・1・15
「ドーナツ雲」の桜島と黎明みなと大橋(東開町)

雄ちゃんの今昔物語 VOL,90

酒と社交場

私の父は全く酒が飲めず、それでもお付き合いだろうが、酒を進められて酒を飲んで帰ったら、体中がジンマシンが出て、一晩中大変だったこともある。そう言うこともあり、我が家では酒のない生活が当たり前だった。

私の酒の解禁は、1969年4月だった。一浪して熊本大学法文学部に入学したが、当時大学紛争でストライキ中で授業再開の目途もつかない中、義兄の紹介で、配管工事のアルバイトを医学部入学のM君と一緒にした時、会社でお花見をした時だった。20歳前だったが、その当時は大学に入学したり社会人になったら酒は解禁の時代だった。

お酒をどう飲んでいいのかも分からず、勧められるままビール・日本酒等ちゃんぽんで飲み、なかなか酔わずに公園を走り回った記憶がある。帰る頃には呑酔してしまい、車で送って貰ったが、息子の変わりようを見て、両親はどれだけ驚き心配したことだろうか?

その後は、同級生コンパや部活(陸上部)コンパや合宿打上等で飲んでは酔いつぶれ二日酔いの繰り返し。そして1年後は立派な呑兵衛に成長した。

家では父が飲めないので、茶の間で晩酌することも無く、兄と飲むときには私の部屋に酒とつまみ(缶詰や乾きもの)を持ち込み、2人で飲んでいた。母は酒のつまみを作ったことがないので、つまみが欲しいと頼んだら「かっぱえびせん」が出た時は参った!

それまで、コンパの2次会で、熊本市の繁華街、銀座通りや銀杏通りを通っては、当時最先端のディスコで踊ったりしたが、魅惑的な別世界、もっと知りたくなった。
一年経って、このままキャンパス生活だけだったら後悔すると思い、人前で歌ってみたい、もっと知らない世界を知ってみたいと思いがつのり、夜のバイトに足を踏み込んだ。

私はおしゃれな店のクラブ・Yでバイトした。数店経営され、働く女性は社員として雇用され社会保険も完備、毎月社長出席で社員の誕生会を開いたり、今思えばしっかりした経営をされていて、運が良かった。普通見られる「指名制」もなく、自分に自信のある子やしっかりした生活設計のない子は早く転職していた。驚いたのは、美人の子が「一番人気」ではなかったことだ。見た目も大事だが、お客様に対して一線を引き、毎日きちんと出勤し、明るく店を盛り上げる子が会社からも信頼され、お客様にも人気があった。

入社後まもなくその会社の周年記念式典があり、系列の店で100名を超すパーティがあった。そこでダンスコンテストがあり、老若男女が踊りまくった。私も踊りまくったが、気がつけば私の周りに「道」が出来ていて、全員が手拍子で迎えてくれた。お調子者の私はさらに調子に乗り、その道をディスコのステップで踊り、時折「チャップリン」や「モンローウォーク」を交えて練り歩き、大喝采を浴びて優勝した。(映画「Saturday Night Fever」を彷彿?)・・・
まじめな熊大生が一夜にして店の人気者になった瞬間だった。

それを機にジャズマンたちと仲良くなり、洋楽を歌わせてもらったりして「ジョン」と呼ばれ、今の「ELVIS JOHN 小林」の原形ができた。約50年前、巡業で当時の城山観光ホテル(旧館)の最上階ラウンジ「ムーンライト」にも出演したが、私には最も歌いやすいお洒落なステージだった。

華やかな夜の世界の表裏も知り、歌も歌わせてもらい、おかげで大学を1年留年してしまったが、何の未練もなく、社会人になった。恐らく人前で歌うことは無いだろうと思っていたが、カラオケの普及で夜の世界は一変した。介護福祉の世界で私の出番も増えたが、それを打ち消す如く、この2年は「コロナ禍」の嵐。「今は仕事に全力投球をせよ!」との神の啓示、と明るく受け止め、のどと体力の鍛錬に努める日々が続きます。


1971年7月
クラブYの専属「ザ・井上BAND」SAXのK氏送別会
私は前列中央