元気通信#160「人生は魂の試練の場」 

  ” 「自然(宇宙創造の神)は、全ての人間にそれぞれの試練を与え、その人間がどのように
自らの生を全うして行くのかを見ているのではないか、そのように私は考えます」「人の一生、良いことも悪いことも、魂にとってはすべてが試練なのです」と言われるのは、京セラ創業者・稲盛和夫氏です。70歳過ぎて、最近つくづくそう思います!”

 それは悪い時ばかりでなく、良い時さえも試練である、と言われる。歴史上の人物ではもちろんのこと、もっと身近な現在の社会経済においても、あっという間に財をを為した経営者が権力を持った途端、腐敗して消えてしまっている例は枚挙にいとまがない。また今世界を騒がしている世界の大国の権力者たちも、いずれその憂き目に会うことになるだろう(その間のあまりにも犠牲の多さに心が締め付けられてしまうが・・・人間の愚かさよ)。

 私の人生は「小さなジェットコースター」・・・小物のくせに急角度で乱高下し、平穏な時期が少ない。
何故だろう?と何となく思ってきた。考え方が間違っていることに70歳にしてやっと気づいた。
 良いことは「自分の力」、悪いことは「会社・上司・部下・競合・時代のせい」にした社会人50年だった。経営者になっても20年余、最初の10年は勢いと時流に乗って3倍強に伸ばして意気揚々。しかし「元来器量は小さく、心を磨かない」私はどんなに頑張っても伸びるのも中途半端で、それを自己弁護する自分がいて、反省も中途半端だった。

 そんな弊社を直撃したのが、2年前の「コロナ禍」だった。2年前の2月半ばからイベント売上や予約が潮が引いたように数か月真っ白に、私の頭も真っ白になった。この時浮かんだ言葉が「もう駄目だと思った時が仕事の始まり!」を信じて、ひたすら「利他の心」と「動機善なりや」「私心なかりしか」(前出;稲盛和夫氏言)を判断の基準にして、いろんな方とのご縁をいただき、何とか乗り超えることが出来た。

 社屋移転から1年半、「10年ビジョン」を作り、「意気揚々と再スタート!」したが、まだまだ乗り越えるべき壁は大きいことを痛感する。これも「試練」と明るく受け留めたい。社員も増え、層も格段に厚くなり、ご利用者様、ケアマネさん達にお役立ちできる機会も増え、キャパも増している。諦めずにベクトルを合わせ、努力を続ければ、多少時間がかかっても、必ず顕在化するはず、と信じて頑張っていきたい。これまで20年間で「最高のスタッフ」だと確信している。神様が見てないはずはない!・・・と信じて、まずは私が老骨にむち打ち頑張います!


「熊本城と城彩苑」城彩苑(左下)

画像引用:「桜の馬場 城彩苑について」桜の馬場 城彩苑 公式アカウント

雄ちゃんの今昔物語 VOL,94

「戦争と平和」を考える

VOL.1「傷痍軍人」

 ロシアのウクライナ侵攻は早や3か月を過ぎたが、全地球人の願いとは裏腹に、まだ終結の方向性すらも見えない。両国の戦争による死亡者ばかりでなくその家族、数百万に上る難民、身体を負傷したり精神的障害を受けていたり、今後食料不足等で亡くなる人・・・等々、数千万人にも及ぶのではないかと大変危惧される。

 人を「死」や、それ同等の「不幸」に至らしめる「戦争」について始めて現実の問題として考えた人も多いのではなかろうか?・・・また日常の社会は「平和」があって始めて成り立つものであり、「戦争」はもちろん、地震・津波・噴火火砕流・水害等の自然災害、それに「感染パンデミック」、また「温暖化」による異常気象等、「平和」を脅かす存在の多さを考えると、20世紀までの「人類成長発展の世紀」は、21世紀は一瞬にして「人類存亡危機の世紀」にとって変わるかもしれない。と思うのは私だけだろうか?

 その中でも人為的な最悪が「戦争」だが、第2次世界大戦後77年、経験した人は高齢化して、書籍や映画、あるいは「歴史館」や「史跡」を通してしか知る由がないのが実情だろう。そこに毎日のように飛び込んでくる「ウクライナ情勢」の悲惨さに、私はもちろん皆様唖然とするばかりではないだろうか?

 私は戦後「団塊の世代」生まれ、戦後外地(朝鮮・中国・東南アジア)から引き揚げてきた人たち向けに建てられた、熊本市健軍町の「秋津寮」で、昭和24年生まれた。しかし私が物心ついたのは4歳ぐらい昭和28年、熊本市の下町・本荘に引越したころからだった。

 小学校に入学した昭和31年からは行動範囲も広がり放課後、母がパートで働いていたデパート「鶴屋」(自宅から私の足で数十分)に出かけて、母の仕事が終わるまでの待ち時間、漫画本を読んだり屋上で遊んだりしていた。鹿児島市で言えば、場所的には「マルヤガーデンズ」的な位置関係だ。近くには洋画封切映画館「新世界」や「大劇」があり、下通・上通があり、「手取本町」電停がある、鹿児島「天文館」電停とそっくりである。私は母を待つのが飽きると、お金も無いのに、近くの繁華街に足を伸ばすようになった。

 そこで見かけた光景にビックリ!当時の熊本市の「新世界」「大劇」と言えば、鹿児島市で言えば最近オープンした「センテラス」の位置(商業一等地)であり、その歩道上で、10名ぐらいの白い帽子・白装束の男の人たちが、茣蓙の上に座っている。両足が無かったり、腕が無かったり、両腕両足無い人もいて、はじめは正面から目を向けられなかった。

 後で親に聞いたのだろう、戦争で負傷した人たちを「傷痍軍人」と言い、(当時は不思議に思わなかったが)毎回行くたびにいて、ある人はアコーディオンやギターやハーモニカを演奏したりしていた。そうやって毎日通行人から募金を求められていたのだ。・・・どこに住んで、どうやって通勤?していたのか、その当時は知る由もないが。

 ある日珍しくポケットに小遣い5円玉を入れ何か買うつもりでいたが、その場所を通り、悩んだ挙句、清水の舞台から飛び降りたつもりで全財産を募金してしまった。先にも後にもそれきりだったので、ちょっと後悔したのかもしれない(笑)

 戦争の傷跡と言えば、父の会社の社長の弟さんが、失明をされ顔の傷口が痛々しかったのを、5歳時、社員旅行で海水浴に行った時を思い出す。

 また熊本城の現「城彩苑」は昭和35年ぐらいまでは瓦礫があったり・・・恐らく鹿児島でも同世代の思い出は、場所が違っても一緒かもしれない。